陽は何刻も前にすっかりその姿を地平線の下へと消した。ぼんやりと月灯りだけが足元を覚束なく照らす。シャンドルは足早に都のはずれを目指していた。深海のような青色の鎧を脱ぎ、同色のグラスウェアを羽織っている。その表情は僅かに疲労が見え隠れしていた。仕官試験合格者の書類をまとめるのに存外時間を食ってしまったのだ。 (もうとっくに夕飯の時間か…怒っているだろうな)  空腹の欠食児童がぷりぷり湯気をたてる姿が目に浮かぶようだった。少々歩く速度をあげる。貴族街の南端にある階段を下って平民街を東西に横断する。すると都の中で最も寂れた貧民街<スラム>に辿り着いた。スラムの中でもさらに外れた場所にその家はあった。直径4、5メートルはあろうかという巨木が枝を無数にめぐらせている。その枝達に支えられるようにして、1軒の家が建っていた。建っているというよりも木の上にどかんと乗っかっているというのが正しい表現だろうか。赤い屋根がかわいらしい小振りの家だ。枝が蔦のように壁に絡みつき、通りに面している窓は室内の電球の灯りで橙に染まっている。 根の上では大きな体躯の犬が我が物顔で寝そべっていた。シャンドルの姿を認めるとちらりと視線だけ寄こしてくる。軽く頭を撫でてやると、満足したように再び瞼を閉じた。木の幹に添うようにぐるりと設置された階段を上り、シャンドルは家の玄関にたどり着いた。ノックもせずに古びたドアを押しあける。 「遅い!ちょっと聞いてないんだけどシャンディ!!」  案の定、ドアを開けた瞬間に思った通りの罵声が飛んできた。だがしかし後の内容はシャンドルが予想していたものと違うようで。仁王立ちで彼を出迎えた小柄な少女は、昼間の青い訓練服に身を包んだままだった。そのまま唾を飛ばす勢いで捲くし立ててくる。 「研修中はスリーマンセルってどーいうこと!?チーム重視とか一蓮托生とかマジ無理!ていうか組んだヤツらが最悪なんだよ!ありえないっつーのあのバンダナ野郎私のこと『チビザル』って呼んだんだけど!うああああむかつく!腹たつ!ギッタギタにして3枚におろして火にくべて食ってやりたい!」 「…ララ」 「あとあのおっさんさぁ!胡散臭いにもほどがあるよ!へらへらへらへらして『お嬢ちゃんいくつー?』ってバカにしてんのかー!アンタが思ってるより5つは上だっつーの!髭抜いてやろうか!もームリ!やってらんないむぎゅ」  語尾が妙に潰れたのはシャンドルに両頬をプレスされたためだ。大きな掌で顔を挟まれたまま、ひょっとこのようになった口をさらに尖らせてララは不満気に彼を見上げる。 「ひゃにすんら」 「ララ、俺がわざわざ兵舎を抜けてここまで来ているのはお前の愚痴を聞くためか?」 「う…」  バツが悪そうに視線をそらす。小さい声でぼそ、と呟いた。 「夜ごはん…」 「正解。支度してやるから、さっさと着替えてきなさい」 「はーい」  不満をありありと顔に出しながらも、ララは素直に言葉に従った。子供のように頬を膨らせたまま服を替えるべく奥の部屋にひっこむ。  その背中を見送りながら軽く嘆息して、シャンドルはキッチンへ向かった。 (ポトフでいいか)  手早く作れるものでないと、彼女の腹は口喧しく鳴き始めるだろう。自身の空腹も手伝ってシャンドルはさっさと調理を済ませることに決めた。シンク下の籠からキャベツや人参等の野菜を取り出して水で洗う。 (まだ春先だからいいが、暑くなったら腐ったものは食べないようにララに注意しておかないと)  まるで主夫のような所帯じみた心境に自分で可笑しくなって、小さく笑った。軍の誰もがシャンドルのこの姿を見たら腰を抜かすか腹を抱えて大笑いするだろう。冷静沈着で公正無比。信頼のおける人柄と、並外れた剣技を持って27という若さで筆頭将軍に登りつめた出世頭。それが他人からのシャンドルの評価だ。それがまさかスラムの隅っこにある家で、1人の少女のためにいそいそとキッチンに立っているなど誰が予想するだろうか。  野菜や肉を適当にぶつ切りにして、まとめて鍋へ放り込む。右下の棚に手を伸ばし、白ワインの瓶をとった。ふと眉根が寄るが、すぐにやれやれというように肩を竦めてワインを鍋に注いだ。火をつけ、鍋に蓋をする。 「いーい匂い!」  背後で呑気な声がした。部屋着に着替えたララが瞳をキラキラと輝かせていた。先程の不機嫌はどこへ行ったのやら、部屋中に漂う夕飯の空気にすっかり酔ったように頬が緩んでいる。短い袖や裾からのぞくすらりとした四肢は、昼間に大の男達をバッタバタ薙ぎ倒していたとは考えられない。大きく開いた襟元は首筋に這う烙印を惜しげもなく晒している。ぱたぱたと駆け寄ってくると、シャンドルの首におんぶをせがむ様な体勢で飛びついた。 「今日なに?」 「ポトフ。…ララ、この間俺がおいていったワイン、飲んだな?」 「……なんの話かな?」 「とぼけるな。半分以上減っているぞ」 「ジャックが飲んだ」 「犬がワインを飲むか!1人の時は飲むなってあれほど…」 「はいはい、わかったわかった。お皿だそーっと」  長い説教が始まる前に、とばかりにララはシャンドルの背中から軽やかに飛び降りた。言い募るはずだった言葉は行き場をなくして喉の奥へ引っ込む。シャンドルは今日何度目かわからない溜息を洩らした。根本的にこの少女に甘いのだ、自分は。  蓋がガタガタッと音をたて、慌ててシャンドルは脇に置いておいたジャガイモに手を伸ばした。


「いただきまーす!」 「召し上がれ」  木製の小さなテーブルを挟むように2人で座り、ララの陽気な挨拶を合図に夕飯がスタートした。食欲をくすぐる香りに少女はほくほくと顔を綻ばせてスプーンを握る。嬉しそうに野菜を口に運ぶララを見て、シャンドルも満足気に微笑んだ。 「で、さ!何なのあの制度!」  不意に思い出したようにララが大声をあげる。先程腹を立てていた件を思い出したらしい。 「何ってなんだ」 「だから、研修中は3人で1チームってやつ!そうする意味がわかんないんだけど」 「軍は集団組織だ。協調性を持たずに和を乱す者がいれば、それは内部崩壊に繋がる。周りの者と協力することを学ぶためのスリーマンセルだ」 「いやまぁ、軍はそりゃそうなんだろうけどさ、あたし配属先は軍隊じゃなくて旅人<ライゼ>志望だもん。関係ないじゃん」 「あのな…」  頭が痛いというようにシャンドルはこめかみを押さえた。この子は何度説得しても首を縦に振らない。頑固なのは育ての親譲りか。 「師匠を目指したい気持ちはわかる。が、あの人も大元帥の職を全うしてから旅人になったんだ。いいか、旅人っていうのは軍の中で最も末端の閑職みたいなもので、仕官したての若造が最初から志望してつくような職ではない。まず軍隊の中でしっかりと下積みを経験して、それから外の世界へ出ていくものだ」 「あ、閑職ってバカにしたー後で父さんに言いつけてやろ」 「一般的にそういう認識を持たれているというだけだ。俺はそういった偏見は持っていない」  あくまで淡々と返してくる男に、ララは口を尖らせた。 「だってさ、あいつら絶対気が合わないんだもん」 「それでも親交を深めて協力するのが目的だ。辛抱しろ」 「えーだって確実に足手まといだよ。特におっさん」 「自分の能力を過信するのはお前の悪いクセだな。いつか足元すくわれるぞ」 「っだーもう!ああ言えばこう言う!シャンディもてないよ!」 「仮に俺が女性にもてていたとしたら、こうやってお前に食事を作ってやりに来られなくなるな」 「う、それは、困るね…」  実際端正な顔立ちをしているシャンドルは城のメイド達の間で人気が高いのだが、本人の知るところではないらしい。最終的にララが言い負かされるのはいつものことで、2人は顔を見合わせてくすくすと笑った。 「今日泊まってくよね?昨日マットほしたからいい匂いだよ」 「ああ。今日はお前に蹴飛ばされないで眠れるといいな」 「蹴ってませんー右足伸ばしたところにいるのが悪いんですー」 「それを蹴ると言うんだ」 「うっさいなーもう。あ、明日起こしてね!どうせ行く場所一緒なんだし」 「お前の集合時間は俺より30分早いぞ」 「うそ!?」  会話は尽きることなく、時間は過ぎてゆく。貧しく荒れたスラムに映える、小さな赤い屋根の家。灯った明かりは暖かく、漂う空気は穏やかだ。それでもどこか寂しげなのは、もう還らない人の残り香か。賑やかな2人の話し声を耳の遠くで聞きつつ、木の根元に寝そべるジャックは大きく欠伸をした。ジャックの尻尾が振れる先に、黒く冷たい石が2つ並ぶ。石には名前が2つ刻まれていた。 『アルベルト・ステイグマ』 『ジュリア』 遠い昔に儚く散った、2つのぬくもりの名前だった。




息を吸い込むと、じっとりと喉に張り付くような湿気を感じた。不安定な足元を少しでも照らそうと、男は気休め程度にカンテラを掲げる。自らの足音が周りの岩肌に反響し、幾重にも重なって聞こえる。毎度の集会の度に思うのだが、洞窟の最奥をわざわざ指定しなくても良いだろう。兵舎の寮を苦労して抜け出す自分の身になってほしい。 壁に小さく印が刻まれた分かれ道を右へ折れる。またしばらく進むとぼうっと淡い光と数人の人影を認めることができた。足早に駆け寄ると、女の声があがった。 「随分ごゆっくりねぇ。国軍の寮はそんなに居心地がいいのかしら?」 「冗談言うな。食事はまずいし同僚の鼾はうるさいし最悪だよ」 「あら、残念」  女の隣に腰を降ろす。数人がぐるりと円を描くように座っていた。中央で火をあげるカンテラがぼんやりと個々の顔を照らしだす。老人もいれば、若い女も壮年の男もいる。統一性に欠ける面が、皆一様にさらりとした金髪を靡かせる女に目を向けた。 「さ、坊やも来たことだし」 「いい加減坊やはやめろ」 不満げに呟いた男の言葉は綺麗に聞き流される。女が立ち上がると、各々拳を左胸に当てた。 「暗黒同盟<シュバルツバンド>、始めましょうか」 高らかに告げる女の声は凛とした響きをもって壁を打ち、それぞれの胸に届いた。 洞窟の壁に所狭しと張り巡らされた幾人もの肖像画達が、彼らを穏やかに見下ろしていた。




←BACK