王都の回りをぐるりと囲む結界。呪術師達によって常に一定の効力が保たれているはずのそれは、ここ最近その成果を発揮できていないようだった。その証拠に、今も王都を囲う塀の外を、見るもおぞましい姿のキマイラ達が徘徊している。
一匹が、その目に標的の姿を認めた。時々この塀の中から出てくる獲物と同じ臭いを放っている。荒い息を吐く口元から垂れる涎が大地を汚す。四肢の筋肉を収縮させ、キマイラは目の前の獲物に爪をたてるべく地を蹴った。
巨体を持つそのキマイラから見れば、小さな小さな黒い影。その影が一瞬ゆらりと揺れた。
次の瞬間。
キマイラは自らの身体に起こったことを理解できなかった。否、理解する間もなかったと言おうか。急に手足の感覚がなくなり、地面にどうと倒れ伏す。崩れ落ちたのが相手ではなく自分だと理解するのにも、数秒の時間を要した。
牙の間から、涎と共に苦悶の呻きが漏れる。なぜ。一体、何が。
少し離れた場所に転がっているのは、自分の四肢だろうか。ひどく体が重い。寒い。視界が霞む。
続いて頭部に強い衝撃を受け、そこで、そのキマイラの意識は闇へ落ちた。
それはもう、息絶えたようだった。止めに頭蓋に突き立てたダガーを、無造作に引き抜く。赤い鮮血がそこここに飛び散った。それを無感動に眺めながら、男は流れるような手つきでダガーを鞘に戻した。黒いローブについた砂埃を払う。たった今自分が仕留めたキマイラを観察しようと腰をかがめるが、思いとどまり体を起こした。そして鬱陶しいとでも言うように、頭部に被さっていたフードを乱暴に降ろす。現れたのは、艶やかな黒髪に燃えるような深紅の瞳。
男は改めてキマイラの傍で腰を屈めると、その禍々しいまでの紅を鋭く細めた。まだ温かいキマイラの体に触れる。首周りのごわごわとした体毛を掻きわけ、何かを探すような素振りを見せる。
その手が、ピタリと止まった。確かめるように、何度もその場所を撫でる。それは、命を失った獣を憐れむ愛撫のようにも見えた。鳥のさえずる声が聞こえる。静かな空間で、獣の首筋を撫で続ける。
そして立ち上がった彼は、腰のサーベルを抜き放った。顔の前で垂直に掲げ、祈るように目を閉じる。口の中で神に奉げる言葉を小さく紡ぎ、剣の切っ先をキマイラの首元へと一気に振り下ろした。
「マリア!どこ行ってたんだい!?もう全然帰ってこないからもしかしたらやっぱり直前に嫌になってとんずらしたのかとかどっかで行き倒れてるんじゃないかとか秘密の黒魔術の餌食になったんじゃないかとかお兄ちゃんはもう生きた心地が―――」
クリスが扉を開け、エスコートされるがままに部屋に足を踏み入れたとたんにこれだ。マリアは長時間の不在を詫びる間もなく眩暈を覚えて天井を仰いだ。
「あのね、兄様。時と場所と状況を考えて発言してくれる!?何よ黒魔術って!」
「いや、だって…」
「だってじゃないの!馬鹿なこと言うの家の中だけにしてよね!」
「お城っていろんな人がいるじゃないか。王立研究所もあるし実験の材料にでもされてたらどうしようと思って」
「あーはいはいはいはい」
言い募る兄を適当にいなす。今は2人きりではないのだ。背後を振りむくと、扉のところでクリスがわずかな微笑を浮かべて立っていた。
「す、すみません…兄が変に騒いでしまって…」
「いいえ、お兄様の発想力は非常に豊かでいらっしゃるのですね。劇作家の才能がおありになりそうだ。…それでは、これからフォーゲル公らをお呼びしてまいります。少々、おくつろぎになってお待ちください」
そう言うと、軽く一礼をして部屋を去って行った。扉が静かに閉まる音が部屋に響く。途端、兄がのほほんと間延びした声を出した。
「いやぁー綺麗な人だねぇ。国王軍の人かなぁ?」
「兄様…今の馬鹿にされたって気付かないの?」
「え、どこが?」
「たとえうちが貧乏貴族だとしても、普通一家の当主に『劇作家』だなんて言う!?失礼極まりないわよ!」
「いやでも褒めてくれてたみたいだし」
「あ―――!もうっ!」
まったく話の噛み合わない兄に、思わず髪の毛を掻きむしって苛立ちを発散したい気持ちを抑える。せっかくデイビットが綺麗にセットしてくれたのだ。見合い前にこんなことで崩したら勿体なさすぎる。
ぴんと張った皮のソファに勢いよく腰をおろす。家のモノではありえない弾力で押し返されて、不覚にも少し感動した。さすが外れの客間であっても王城だ。滅多なものは置いていないということか。そこで、ふと首を傾げる。
「あれ?兄様今の人のこと知らないの?」
「あぁ、今初めてお会いしたよ。綺麗な人だったなぁ〜。ああいう方のことをきっと『傾国の美』って言うんだよね」
「それは女の人に使う言葉よ…。でもおかしいな、彼、『兄様が心配してた』って言ってたから、てっきり会ったのかと思ってた」
「いや、知らないよ?僕が待っている間に来たのは、お茶を運んできてくれたメイドだけだ」
「そうなの?おかしいな。誰かに聞いたのかしら?フォーゲル公のことも知ってたから、もしかしたらフォーゲル公に仕えてる騎士か従者かもね」
それならば、マリアがベラクア家の人間だということを知っていたのも頷ける。やはり八貴族ともなると、たかが従者でも相応の身なりをするのだろうか。先ほどの青年の服装や剣の拵えは、溜息がでるほど美しく、目で見て明らかに判る程上質なものを使っていた。ベラクアの人間などには一生かかっても届かないような品だと思われる。
(そーいう従者を抱えてるところと、これからお見合いするのか…なんか実感湧かないな)
メイドが運んできたという紅茶のカップに手をのばす。一口すすると、多少冷めていたが、風味ある香りが鼻をくすぐった。途端、きゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。ローズマリーの紅茶だ。いつも、デイビットが好んで淹れてくれるものと同じだった。もちろん、質はこちらの方が遥かに上だが。
―――嫌になったらいつでもやめていいから。もし嫁にいったとしても、帰りたくなったらいつでも俺達のところに帰ってきてくださいね。
いつだったか、デイビットに言われた言葉を思い出す。もう1口、飲む。口の中で花が咲くように香りが広がる。
(本当は、嫌)
カップを握りしめて、兄には決して気取られぬように、マリアは胸中で溜息をついた。
(家のためになることはなんでもやりたい。そのためのお見合いなら、仕方ない。でも本当は、顔も知らない人と結婚するのなんて、嫌だよ)
帰りたい。早く、慣れ親しんだ我が家へ。慣れないドレスに、明らかに場違いな部屋。気を抜くと足元から何かが崩れて、真っ暗な闇の中へ落ちていきそうだった。
視線を落として自らの膝を見つめた。真白なシルクのドレス。兄はこのドレスを購入する費用をどこから工面したのだろうか。今のベラクア家にはそのような金の余裕はないはずである。舞踏会の時から問い詰めようと思って、結局うやむやにしたままだった。
(ん?)
ふと、目をとめる。白く艶めく生地の上に、黒い筋が一本、横たわっていた。つまんでみる。一本の髪だった。脳裏に先ほどすたこらさっさと退散していった大型犬の顔が浮かぶ。じゃれあっていた時についてしまったのだろう。思わず、口から溜息のような笑いがこぼれた。
同時に、沈黙を保っていた部屋の扉が、静かにノックされる。兄が緊張で背筋を伸ばすのがわかった。マリアもカップを置き、扇を開いて姿勢をつくる。
ゆっくりと開いた扉から顔をのぞかせたのは、最初に部屋に案内をしてくれたフォーゲル家の執事だった。初老の顔に刻まれた皺をぴくりともさせず、抑揚のない声で告げる。
「旦那様、若旦那様がお見えになりました」
(…来た)
自然と筋肉が緊張するのがわかる。マリアは静かに心呼吸をした。
扉の影から姿を現したのは、白髪混じりの壮年の男だった。ビロード製の豪奢な服に身を包んだその姿には気品が感じられる。いかにも貴族の重鎮といった雰囲気がだ漂っていた。
王国で絶大なる権力を誇る八貴族が筆頭、フォーゲル公爵。
マリアは無意識のうちにドレスのスカートを握りしめる。男が口を開くと、腹に響くような重低音の声が部屋に響いた。
「よく、参られた」
端的な言葉に、威圧すら感じるほどだ。横の兄が挨拶を返そうとしてあーとかうーとか唸っている。兄は頼りにできないと悟ったマリアは扇を閉じて胸の前で持ち、深々と頭をさげた。
「お初にお目にかかります。マリア・ベラクアでございます。兄ロバート共々、よろしくお願い致します」
「しっかりしたお嬢さんだな。これならば我が愚息にとっても不足のないお相手だ」
そろそろと顔をあげると、フォーゲル公の口の端は上がり、穏やかな微笑が浮かんでいた。なんというか、想像していたよりも温厚な印象を受ける。
(えっらーい貴族様だからものすっごいしかめつらして冗談も通じなくて無表情で融通きかなくて傲慢でえばり散らしてるのかと思った)
胸中ではそんなことをこっそり呟きながら、マリアもできるだけ上品に見えるように微笑み返した。
「お褒めにあずかり光栄です。本日は王城にお招きくださりありがとうございます」
「大事な見合だからな。陳腐な我が家で行うわけにもいくまいて。すべては陛下のご厚情によるものだよ」
さっきから発言のできない兄が今度は深呼吸を始めた。やめるように後ろ手に扇でたたくが、気付かない。
フォーゲル公はマリア達の正面に置かれた長椅子に腰をおろした。立ったままの2人にも座るよう手で勧める。
「クリストファー、いつまで外で待っているつもりだ。早く入りなさい」
「はい、父上」
扉の外から涼やかな声がした。肝心の見合い相手のフォーゲル・ジュニアだ。マリアの背筋が緊張で伸びる。望まない結婚ならば、せめて、相手がいい人でありますように。時間をかけて愛情を育てていけるような。心を寄せるへの想いを永遠に閉じ込めて、共に穏やかに暮らしていけるような。
祈るような気持ちで見ていると、扉がわずかに動いて誰かが部屋に入ってきた。太陽の光のように輝く金髪が揺れる。
「…………え?」
思わず口から声がこぼれおちる。まさか。
(うそでしょ!?)
「先ほどは失礼を致しました、マリア嬢。クリストファー・フォーゲル・ジュニアと申します」
そう言ってまるで天使のような微笑を浮かべたのは、ジェイの友人であり、マリアがてっきり従者だと思っていたあの青年だった。
「私が、あなたの婚約者になる男です。どうぞ、よろしく」
暮れなずむ街を、長身の黒い影が大股で走っていく。
罰ゲームから無事生還しその日の勤務も比較的真面目にこなしたジェイは、日が落ち始めると同時にさっさと警邏の駐屯所を退出してきた。
スピードを出しすぎて思わず買い物帰りの女性とぶつかりかける。すれ違いざまにおざなりに謝罪を伝え、また再び走り出す。体に先んじて、気持ちが弾んで転がっていくようだ。
ようやく南区にはいると、労働を終えて帰ってきた男達の集団とはちあった。ジェイの姿を認めると、馴れた様子で手を挙げてくる。
「よージェイ!帰りか?」
「もう店開いてるよな?今から行くからなー」
毎日日課のように店に顔を出している男達のさも当然というような言葉に、ジェイは怪訝な顔をして首を傾げる。
「あ?何言ってんだよ、今日はダメだってアンから聞いてないのか?」
立ち止まるのも時間が惜しいジェイは、集団の前で急かすように足踏みをしながら男達を見回す。彼らはきょとんとした表情をむけてきた。
「え、聞いてねぇよ」
「ベロベロだったから覚えてねぇだけだろ!今日は臨時休業!アンは昨日ちゃんと言ったぞ」
「えーでもなぁお前んとこでグイッといかねぇと一日がしまらんっつーか」
「アンちゃんに会わないとなぁーあの笑顔見ないと、こう、仕事終わったー!て感じしないよな」
「だな」
「ジェイは別にいなくていいからな」
「つーかなんで今日やってねーんだよ」
「そうだそうだ、俺達の安らぎを奪うな!」
「だーもーうっせーな!休業は休業なんだよ!グダグダ言うんじゃねぇっつーの!」
散れ、とでもいうようにわざと男達の真ん中を割って通る。背中に抗議の嵐を受けながら、ジェイは再び走り出した。
本日酒場は臨時休業。普段ならこの時間は開店の準備に勤しんでいるアンは、今はきっと今夜のために腕によりをかけて料理を拵えていることだろう。1年半ぶりの家族の再会だ。全員集合とはいかなかったものの、兄弟水いらずで楽しめる晩。気持ちが弾まないわけがない。
飛ぶように通りを駆けていくジェイは、遠い前方に目を凝らした。店の前に誰かいる。アンではない。男だ。沈みゆく夕陽を受けて、くすんだ金髪が静かに輝いていた。男は桶と杓を手に、店の周りに水を撒いているようだ。甲斐甲斐しく働いているその姿に、ジェイは小さく噴き出した。
(あいつ、休暇に帰ってきたんじゃないのかよ)
地面を蹴る足に力をこめて、ぐんと加速した。そのまま速度を緩めることなく突進し、そして…
自らめがけてものすごい速さで走ってくる気配に気づいたらしい。男はこちらをくるりと振り向き、瞬間、人の良さそうなその顔がこれでもかというくらいひきつった。
「デイビットオォォーー!!!」
「うおおッ!?」
ジェイはスピードを殺すことなく渾身の力をこめて男に体当たりした。飛びついたなんてかわいらしいものではない。ただのタックルだ。空中に放り出された桶はあたりに空しく水をまき散らしながら地面を転がっていった。道端で激突した大の男2人は絡み合ったまま地面に転がる。不意打ちをもろにくらって撃沈している男の上に、上機嫌なジェイが馬乗りになっていた。力なく倒れ伏す金髪を、笑いながら両手でわしわしと掻き回す。
「デイブてっめぇ1年以上も顔見せねぇで何やってたんだよ!久しぶりだなーっ!元気だったか?女できた?」
「お、お前、なぁ…っ」
「あー女つくってるわけないよなーお前まだアン好きだもんなー!」
「ばっか…!声でかいだろ!ふざけんなアホジェイ!」
「あぁ?いつまでたっても告白できねぇ意気地無しにアホとか言われたくねぇっつー、のっ!」
上から押さえつけて相手が反撃できないのをいいことに、ジェイはデイビットの脇腹を両手で擽り始めた。よほど弱いのだろうか。下敷きにされた彼は奇声をあげながら身をよじって逃げようとする。渾身の力をこめて横に転がると、上に乗っていたジェイがバランスを崩して地面に落ちた。形勢逆転とばかりに今度はデイビットが上になり、首に腕を回して締めにかかる。
「ぐえっ!」
「ほら、参ったと言え」
「苦しいっつーのギブギブギブ!」
掌で地面を叩くと、デイビットはあっさりと腕を離した。2人して地面に腰をおろしたまま、肩で息をする。この一瞬の間にお互いの服は土と水にまみれていた。
子供のように泥だらけのお互いの姿を見て、どちらからともなく笑いだした。道行くスラムの住人達も、十数年前に戻ったような2人を見て笑いながら通りすぎていく。
先に立ちあがったジェイは、まだ座ったまま笑いのおさまらない兄弟に手をさしのべた。
「おかえり、デイビット」
その手をとり、引き揚げられながらデイビットも笑って応える。
「ただいま、ジェイ」
夕陽に細く長く伸ばされた2人の影は、互いを小突きあいながら店の中へと消えていった。
「乾杯―――!!」
すっかり夜も更けた頃、酒場で3人の声が重なった。普段なら店中の燭台で炎がゆらゆらと揺れているところだが、今日はカウンター周辺の5つだけが、周りを薄暗く照らしていた。
エールを一息で飲みほしたジェイは、派手な音をたててジョッキをテーブルの上におろした。
「アン、おかわり」
「早っ」
顔を微妙に顰めながらも、腕を伸ばしてエールを注いでくれる。ジェイとアンの間に挟まれて座っているデイビットは、ほんのり目元を綻ばせた。
「相変わらずの酒豪だなぁ、ジェイは」
「この女ほどじゃねぇよ」
「殴るよ?ビンで」
悪態をつけば、すぐさま鋭い声が飛んでくる。それでも顔は花のように微笑んでいるのだからなお恐ろしい。おー怖ぇ、と肩をすくめながら、ジェイは注がれたエールに口をつけた。
夕飯時は、久し振りに兄貴分に会えた子供達がそれはもうはしゃいでしまって、大騒ぎだった。はしゃぎすぎて水をこぼしたり皿をひっくりかえしたり、あまつさえとっくみあいの大喧嘩まで始めるのだから年長組はゆっくり話をしている暇もない。月も天頂まで昇り、ようやく子供達全員を寝かしつけた後に改めて3人で飲みなおしている次第である。
「本当久し振りよね。1年ぶり?1年半だっけ。最近忙しかったの?」
「いやーまぁ忙しいというか忙しくならざるをえないというか…もう使用人が4人しかいないんだよな、あの家」
「まじかよ!昔はでかかったんだろ?没落もいいとこじゃん」
「まぁ、貧乏は貧乏だけどいい家だよ。旦那もお嬢さんも人が良すぎて困るけど。ただ、家だけ無駄にでかいから維持が大変なんだよなぁー」
ポロリと普段は言わない本音が出て、自分でも肩を竦めた。家では絶対に口にしないが、デイビットは部屋を持て余して維持に金ばかりかかる屋敷にあまり意味はないと思っている。屋敷を売って小さな家に移ればそれなりに生活ができるのではないだろうか。まぁ、これはデイビットが庶民の出だから言えることで、ベラクア家に誇りを持っているあの2人にはそんな気は毛頭ないだろう。こんなこと言おうものなら先2週間は腹をたてたお嬢さんに口を聞いてもらえないに違いない。怒り心頭で顔を真赤にするマリアの顔が容易に想像できて、デイビットは思わずくすりと笑みをこぼした。
「あー思い出し笑いしてるー!」
めざとく見ていたらしいアンが大きな声をあげた。少し酔ってきたのだろうか。頬がほんのりと赤い。彼女はぐいっとデイビットに体を寄せてきた。にやにやと頬が緩んでいる。
「ねぇ、お嬢さんのこと思い出してたんじゃなーい?デイビットのとこのお嬢さんってかわいいんでしょ?どんな子?デイビット好きだったりしないの?」
「な…っ、ない!ないないないって!」
「えぇー?あやしーい!」
けらけらと笑いながらアンは席を立った。どこへ行くのかと問うと「お花摘み〜」と陽気な答えが返ってくる。「素直に便所って言えよ」と吐いたジェイの頭にすり抜けざまに手刀を落とし、アンは鼻歌まじりに店の奥へと消えた。
アンの姿が消えたのを確認するや否や、デイビットは深い溜息をついてテーブルに突っ伏す。額がもろにぶつかって鈍い音をたてた。
「絶対に俺のこと…眼中にないよなぁー」
「そうか?押し倒してみたら案外うまくいくかもよ」
「できるわけないだろ、そんなこと」
「やってみればー?なんなら俺2階か外行こうか」
「ジェーイー」
半眼で睨みつけても、まったく気にする風もなくジェイは喉を鳴らしている。人の気も知らずに呑気なもんだと文句を垂れながら、デイビットものろのろと体を起こした。
「お前は?」
「なにが」
「最近どーなんだよ。4年前に年上の女に振られたってのから後何も聞いてないぞ」
「振られてねぇし。振ったの俺だし。…まーちょっといいかもってのはいるなぁ」
デイビットのジョッキが空いたので、エールを新たに注いでやる。しゅわしゅわとたつ泡をぼんやり見つめながらジェイの脳裏に浮かんできたのは、数週間前に知り合ったばかりの少女の顔だった。
「なんかこう、ちっこくて、くるくるしてて、やたら元気よくて、髪やわらかくて、いい匂いすんだよなー」
「お前好きそうなタイプじゃん」
「そーなんだよ!あ、やべぇ、改めて思うとすげー好みだわ」
顔が赤いのはエール摂取のせいだけではないだろう。拳でゴツゴツと額を叩きながらもその彼女を思い出しているようで、表情が百面相のように変わるジェイを見てデイビットは思わず笑みを洩らした。
ふと、マリアを思い出す。あの子もジェイの好みにあてはまりそうだなぁーなどとぼんやり思った。あの小さなお嬢さんは今頃王城で婚約者と対面しているだろうか。本人の意思に沿わぬ結婚はさせるべきではないと旦那に進言までしたデイビットだ。もし偶然にもマリアとジェイが出会うことがあったとして、2人が結ばれるようなことがあれば、自分としては最高に幸せだと夢想を描いた。
(ま、あるわけないな)
現実にはマリアには婚約者ができてしまったし、ジェイにも心に想う相手がいる。これは自分の胸の中にだけしまっておくことにした。
目の前の大皿からチーズをつまみつつ、ジェイの脇腹を小突く。
「どこの子?」
「それが問題でよー。あいつどっかの貴族の娘なんだよな」
「へぇ、いいじゃん別に」
「よくねーよ!貴族だぞ?あのえっらそうにふんぞり返ってて高慢ちきで癪にさわるあいつらだぞ?お貴族様の相手なんて頼まれてもごめんだね」
「でもその子貴族なんだろ?」
「そーなんだよ…なんかあいつ気易いっつーか庶民くさいっつーか、貴族のくせにいい感じなんだよな。初めて会った時なんてさ、あいつ地面に落ちたアイス拾って食ってたんだぜ?お前はスラムの人間かっつーの!完璧俺らサイドの行動じゃん。こないだ道で見かけた時も『塩が…塩が…』ってぶつぶつ呟いてるし」
「あーなんか…誰かを彷彿とさせるなぁ。うちのお嬢さんみたいだ」
「まじ?最近多いのかもな、貧乏貴族」
「そう言ってやるなよ。頑張ってるんだ」
「へいへい。あ、そーいやこないだ、向こうの通りの爺さんがさ…」
飲み干したエールが、じわじわとしみわたるように体中に広がっていった。
他愛のない話をして、酒を飲み、笑いあう。いつまでたっても変わらないこの空間に、これ以上はないという程たとえようのない幸せを感じていた。
この時は、心からそう思っていたのだ。
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