自称お花摘みに行っていたアンが戻ってきて、それからまたしばらく3人は酒を酌み交わしていた。実際このメンバーはざる揃いなので、放っておけばいつまでも飲み続ける。他愛のない話をしながらぽりぽりとつまみをむさぼる様は、子供の頃頻繁にしていた盗み食いを思い出させた。
「その日の仕込みとか勝手に食うとさ、じーちゃんにめっちゃ怒られたよな」
「おもにあんた達がね」
「そーだよ!あのジジイ女子贔屓だったよな。大抵指令出すのはアンだったっつの」
「ほほほ、性別は武器になるのよ。力で劣るんだからその分うまく使ってやらないとね」
「うわ、悪女!」
「でも俺自分がキッチン任されるようになって、じーちゃんの気持ちわかったよ。お嬢さんが小さい頃に一回その日の夕飯になるはずだった魚を食い散らかしたことがあってさ。あん時は本気で怒ったな」
ピーナッツを数個口に放り込む。ぽりぽりと咀嚼しながら、そういえば見合いはどうなったかなとぼんやり考えた。
ふと、背後でキィとドアが軋む音がした。3人が振り返ると、そこには数時間前に就寝したはずの子供達が数人立っていた。睡魔が抜けないらしく欠伸を洩らしたり裾で目をこすったりしている。最も年少のリリスだけが、泣き腫らした目をして鼻をぐずらせていた。
どうしたの、とアンが問うと、リリスに服の裾をしっかと握られているフレッドが、欠伸を噛み殺しながら答える。
「リリスが眠れないっていうんだ。いつまでもぐずぐず泣いてうるさくてみんな寝れないんだよ」
「ふえ、ご、ごめんなさぁい…っ」
「あ、泣かした。フレッドくんさいてー」
「なっ、んだよジェイ兄!ちっげーよ!さっきからずっと泣いてんだっつの!」
「じゃぁもう少し涙を止めてあげる努力が必要だな、フレッド。もてないぞ?ほらリリス、兄ちゃんのところ来な」
少年を茶化したジェイに同調するようなことを言い、デイビットは笑顔でリリスを手招きした。まだぐずりながら小走りにデイビットのもとへ来ると、小さな体で膝によじのぼってくる。その頭を優しく撫でながら、頬を流れていた涙を拭き取ってやった。
「もう大丈夫だぞー。怖い夢でも見たか?」
「…うん、…デイブ兄ちゃん、おさけ、くさい」
「えっ!?あー、結構飲んだからな。ごめんな、嫌?」
「ううん、へいき」
そう言ってデイビットの胸に頬を擦り寄せる顔に、もう涙はなかった。フレッド以下数人の子供達はほっと胸を撫で下ろした表情になる。よほどしつこく泣いていたのだろう。子供達はわらわらとデイビットの周りに集まった。若干除けられたジェイとアンは気にする風でもなくエールのジョッキを傾けている。めったに帰ってこない兄貴分に人気を取られるのは仕方のないことだ。しかもデイビットは子供に対しては砂糖よりも甘いときた。普段アンから説教を受けジェイに投げ飛ばされている子供達が彼に懐かないわけがない。
「よーしもう泣きやんだな。ちゃんとみんなと寝れるか?」
「やー、まだおきてる。兄ちゃんといるー」
「もう夜遅いだろ。明日起きれなくなるぞ」
「でも兄ちゃん明日になったら帰っちゃうんだろ!」
「そーだよ!姉ちゃんとジェイ兄ばっかずりぃよ!俺達だってもっとデイブ兄ちゃんと遊びたい!」
「さっき暴れたのじゃ足りねーのかよ」
横からぼそりと割り込んだジェイの呟きを子供達は黙殺した。――このガキ共、今度覚えとけ。
「みんないい子にしてないと、『方舟』に乗せられて遠いところへ連れていかれちゃうぞ」
「『方舟』?」
リリスの髪を梳きながらデイビットが口にした単語に、子供達が首を傾げる。ジェイとアンも聞き知らぬ単語に、互いに目を合わせて疑問を浮かべた。対してデイビットも皆が知らないことに少々を虚をつかれたような顔をする。
「あれ、そっか。これ貴族の子供にしか浸透してないのかな」
「兄ちゃん、『はこぶね』ってなあにー?」
子供達はすっかり就寝前のお話を聞くような表情で、デイビットの膝に纏わりつく。仕方ないな、と苦笑を洩らしたデイビットは、ゆっくりと語り出した。
いいかい、これは貴族の子供達の間では有名なお話だよ。
「昔々、天の神様は地上を見下ろしてこう思いました。
『この世界には無駄なものが増えすぎてしまった。一度、掃除をしなくてはいけない』
そこで神様は、大きな方舟を作って地上に降ろしました。そして1人の人間を選んでこう言いました。
『今から私が言うモノを全てこの方舟に詰めて、海へ流してしまいなさい』
人間の名前は、ノアと言いました。ノアは神様の言うとおり世界中から言われたモノを集めてきて、方舟の中に放り込みました。しかし、モノとは全て、生き物が生きていくのに欠かせないものばかりだったのです。太陽や、お月様の姿もありました。そして、その中には人間も含まれていたのです。ノアは神様に言いました。
『神様、神様、これらをすべて流しては、世界には誰もいなくなってしまいます。どうか私達をお救いください』
しかし、神様は冷たく言いました。
『世界には無駄が多すぎる。一度綺麗さっぱり掃除をしないといけないのだ』
そうして神様は、最後にノアを方舟の中に放り込みました。ノアは最後の力を振りしぼって、外に何かを投げだしました。方舟は、遠い海の彼方へ消えて行きました。無駄をなくした世界には、何も残りませんでした。光も、闇も、生命も、何も残りませんでした。神様は、取り返しのつかないことをしたことに気がつきました。
『私は何ということを』
神様は、もはや何もなくなった空間にうずくまって泣きました。どのくらいの時間がたったでしょう。神様は、ようやく顔をあげました。すると、足元に何かがコロンと転がっています。拾ってみると、それは小さな小さな種でした。そう、あの善良なノアが最後に残した種でした。神様は種をそっと両手に抱いて誓いました。
『もう一度、世界を創ろう。優しい世界を創ろう。そうして、私はその世界の行く末を、ただそっと見守っていこう』
こうして再び世界は創られました。全ての生命の源に、ノアの種を宿して―――」
これで、お話はおしまい。
静かに話を締めくくる。食いいるように聞いていた子供達の間から、一斉に声があがった。
「何で太陽が船にはいんのー!?」
「月もー!」
「はは、まぁこれは作り話だからそこは突っ込むなよ」
なんでなんでと詰め寄ってくる子供達の頭を撫でてやる。膝に乗せたままのリリスが、くい、と服の裾を引っ張った。
「ん、どうした?」
「わるいこにしてると、神様がはこぶねにリリスを入れてどこかへつれていっちゃうの?」
「そーだなぁ。リリスがちゃんと夜イイコで寝てれば、神様も方舟を作って流そうなんて思わないんじゃないかな」
「じゃぁ、リリスねる」
「そーか、いい子だ。今日は兄ちゃんが一緒に寝てやるからな。怖くないぞ」
「うん!」
先ほどの涙はどこへやら。リリスは頬を上気させ嬉しそうに頷くと、デイビットの胸に抱きついた。デイビットも顔を綻ばせる。リリスを抱えたまま立ち上がった。
「じゃあ、俺そろそろ寝るよ。こいつらもちゃんと寝かせておくから」
「おーよろしくー」
「こっちの片付けは気にしなくていいわよ、やっておくから」
「あぁ、おやすみ」
行くぞ、と声をかければ子供達は素直にその後について行った。普段、散々まだ寝たくないとごねて暴れる姿が嘘のようだ。その背中を見送りながら、アンはぼんやりと呟いた。
「やっぱデイビットは違うわねー。この手際の良さ」
「あ?俺だって毎晩ちゃんと寝かせてんだろ」
「アンタのは一緒に騒いで疲れて寝るだけでしょ!夜のお話だって怪獣が出てくるシーンからいきなりレスリングごっこになってるし」
「楽しいじゃんそっちの方が」
「男子はね!もっと女心学んだ方がいいよ」
「オメーはもちっと乙女を磨けよ」
「むかつくー。ピーナッツ喉に詰まらせて死んじゃえっ!えいえいえい!」
「ちょっ…、お前人のエールに放り込んでんじゃねぇよっ!酔ってんだろ!」
突然ジョッキにピーナッツをひょいひょいと投げ込まれ、慌てて掌で蓋をする。隣のアンを睨むと、頬を赤く染めた彼女はそのままテーブルに突っ伏していた。
「おい、大丈夫かまじで」
「……明日」
「は?」
「また帰っちゃうんだよねぇ、明日…」
呂律の怪しくなってきた口調でもごもごと言う。溜息一つついてそのまま押し黙ってしまったアンを、ジェイは少々虚を突かれた風に見つめた。
(やっぱ無理やり押し倒せば案外うまくいきそうだぞ)
2階で呑気に子供達と寝る準備をしているだろう親友に、心の中からそっと激励を贈る。望みは絶たれていないことを、明日こっそり教えてやろう。
放り込まれたピーナッツを飲みこまないように注意しながら、ジョッキの中身を飲み干した。そのまま逆さにすると数粒が転がり落ちてくる。テーブルの上に散らばったそれを一粒つまんだ。頬づえをついたまま、ゆらゆらと揺れる灯りに透かすようにそれを顔の高さまで持ってくる。
「…ノアの種、ねぇ」
先ほどの昔話を思い出す。いかにも貴族らしい懐柔的な作り話だと思った。敬虔な信仰者が多い貴族にとって、神とは絶対の存在でなくてはならないのである。
「アホらし」
ぽつりと呟いて、ピーナッツを口の中に放り込む。歯ごたえのあるそれを噛み砕くと、ほんのり苦いエールの風味が広がった。
すっかり夜も更けた頃、ベラクア邸の門前に豪奢な造りの馬車が停まった。御者が踏み台を出す。まず降りてきたのはロバートだ。その手を借りて続いて姿を見せたのは、白いドレスに身を包んだマリアである。
2人が降りたことを確認すると、御者は踏み台を仕舞い、丁寧な挨拶を述べて馬車を発進させた。蹄の音を響かせて、馬車は闇の中に消えていく。
音が完全に聞こえなくなると、マリアはそれまでの上品ぶりが嘘のように大きな欠伸を洩らし、合わせるように思い切り伸びをした。
「あー疲れた!終わったー!」
「お疲れさま」
そう労ってくれる兄の顔は、隠しきれない嬉しさが滲み出ていた。締まりのない顔で笑いながら、マリアをエスコートするために手を差し出してくる。ブロンズ製のディモルホセカが咲く門をくぐり、重い扉を開けて屋敷に入った。背後で鈍い響きをたてて扉が閉まる。薄暗い灯りが揺れるエントランスは人気がなくひっそりとしていた。話す声も自然と囁きになる。
「もうみんな寝てるのかな」
「遅くなると言ってあったからな。デイビットも泊まってくると言っていたし」
扉に閂をかけながら、ロバートの顔は未だほくほくと綻んでいた。そんな兄の姿にマリアは胸がちくりと痛む。
「兄様、なんか疲れちゃったからもう寝るね」
「そうだな、兄さんも慣れない馬車で疲れた。これからのことは、また明日話そう」
「うん、そうだね…」
「よかったな!素晴らしい婚約者殿ができて。うちの伝統に見合った御家だし、お人柄もいいし、…生活費も一部援助してくれるって言うし…なによりお前の嫁ぎ先が見つかって、兄さんもこれで一安心だよ」
「うん…、次は兄様の番でしょ。当主がいつまでも独り身なんて格好つかないんだから」
「ま、それは追々な。…ドレス、1人で脱げるかい?」
「子供じゃないんだから、大丈夫よ。入ってきたらメッタメタに殴るからね」
「ははは、怖いな。わかってるよ」
ロバートの手がマリアの髪を優しく梳く。幼い頃から自分のことよりも妹を優先する、優しい兄だ。
おやすみ、とお互いに新愛のキスを交わして、2人はそれぞれの自室へ向かった。
自分の部屋へ入り、灯りもつけずにベッドへの身を投げだす。腰の下でドレスが撓む感触がして、あー皺になるなぁと思ったけれどそのまま天井を見上げて深い溜息をついた。
「いいお人柄、ねぇ」
兄はあの青年の外交用の顔しか見ていないからそう思うのだ。2人になった時に見せたあの氷のような瞳を思い出す。当初マリアに見せていた、兄や公爵が同席していた時のような柔らかな物腰は影を潜め、外界と自己を断絶したような無感情な瞳を湛えていた。
『僕は、貴女と無理に結婚するつもりはない。婚約者として相応の礼はつくすが、最終的な結婚の是非に関して僕は一切口を出すことはしない。それよりも、ベラクアの人間として僕に協力してもらう。それがベラクア家を資金援助する条件だ』
それは、昼にジェイと話していた時の表情とも全く違う。信用せず、内側に踏み入ることを許さない。マリアは探るように相手を見たが、その透き通るような空色の瞳の奥を見透かすことはできなかった。
『うちの書物庫が目的ってわけ?何がお望み?』
必死に毅然とした態度を取繕ってそう尋ねるのが精一杯。クリスはやはり無表情のまま、形の良い唇をゆっくりと開いた。
『失われた古代兵器「方舟」の在り処と、起動方法』
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