寒い。寒い寒い寒い寒い寒い。 どうしたんだ。 冷たい悪寒が全身を駆け巡る。誰かに心臓を鷲掴みにされたようで、胸が苦しい。 息ができない。 眩暈がする。 目の前に並べられた、1つの物体。 白い布がかけられたそれは、もはや物体でしかなかった。 僕は恐る恐る手を伸ばす。 見ちゃいけない。 怖い。 見るな、怖い。見たら壊れる。 自らの意思に反して、手は勝手に伸びて布の端を掴んだ。 ガタガタと震える。 布を一気に剥ぎ取った。 鈍器で殴られたような衝撃が、脳天を駆け巡る。 歩。僕の、かわいい歩。 折れ曲がった腕、斑に変色した肌、不気味なほどに白い顔。 変わり果てた姿で横たわる、僕の恋人。 吐き気がする。気持ち悪い。 僕はその場に蹲った。 世界の全てを遮断するように、目を閉じて耳を塞ぐ。 絶叫したかった。何もかも投げ出して、狂ったように叫びたかった。喉がからからで、舌が顎に張り付いた。 二度と動かぬ恋人を前にして、僕は小さく丸まったまま呻き声をあげることしかできなかった。 「こらー颯太!起きろ!!」 僕の耳元に顔を近づけ、ハイトーンのかわいい声で彼女は怒鳴った。僕は聞こえないふりをして、唸って寝返りをうつ。 瞼ごしに感じる外界は、すでに昼を回っているようだ。やけに強い光を感じる。 僕はもうタオルケットを頭の上まで引き上げて、くぐもった声で抗議した。 「歩、今日は日曜日だよ…」 「日曜日だから?それが重要なんじゃん!一緒に出掛けようって約束したでしょー?」 「あぁ…」 そんな気もする。 今年の冬で19歳を迎える僕と歩は、同郷の出だ。同じ学区で、小学校から高校までずっと一緒の学校だった。腐れ縁の クラスメイトにしては、仲はよかった方だと思う。そんな僕らが高校卒業と同時に交際を始めたのは、ごく自然な流れ だった。どちら からともなく「好きだ」と告げ、普段と変わらぬようなノリで「よろしくお願いします」と頭を下げあった。内心僕は有頂天 だった。だって僕は子供の頃からずっと、歩を見ていたのだから。 実際つきあったからと言って今までと何が変わるわけでもなく、僕たちは大人の情事はおろか、キスもまだ未体験だった。 一緒に遊びにいって手をつなぐのが関の山。 まぁ僕もいっぱしの男なわけで。そろそろ次のステップに進んでもいいんじゃないかと思ったわけだ。それで次こそは と決意して、今週の日曜に公園デートを持ちかけた。 それが、今日だ。 天気が悪そうだということで歩は外出を渋ったけれど、そこは男の意地で押し通した。だって初チューが自分の部屋って なんか嫌だったから。 そんなわけで僕は今日という日を心待ちにしていたのだが。まさか昨日あんなに夜更かししてしまうとは。予定外だった。 おかげで今猛烈に眠い。死ぬほど眠い。このまま死んでしまいたいほど眠くてたまらない。 一向に起きる様子のない僕に、歩が溜息をついた。わざとらしく、もう一度ついた。若干の笑いを含んだ声で告げる。 「あと3秒で起きないとぉービデオデッキから飛び出ててる颯太くん秘蔵のエロビデオのテープをぐっちゃぐちゃに伸ばして 捨てちゃおうと思いまーす。はい、さーんにーいいーち」 「っと待ったぁぁぁ!それはダメ!あれはぜったいだめだめだめ!」 「はい、おはよう」 陳腐な罠にひっかかってまんまと布団をはねのけた僕に、にっこりと笑いかける。歩は特別美人ではないが、その笑顔は まるで太陽のような明るさを持っていた。 もう1度夢の世界に戻るわけにもいかず、僕はそのまま渋々とベッドから降りた。 ふと気づく。 「あれ。歩、焼けた?」 僕を見つめる歩の肌の色が、記憶してる常のものより少しだけ浅黒く思えた。が、僕の問いかけに反して歩は首を横に振る。 「何いってんの、あたしが海とか川とか嫌いなの知ってるでしょ。肌なんか焼きにいくと思う?」 「思わないけど…なんか黒くなった感じする」 「いつもの気のせいでしょ。ほら、あたしもう準備できてるんだから、颯太さっさと着替えてよ」 「はいはい…」 まだ完全に覚醒しない頭を振って、僕はのんびりと箪笥に向かう。パジャマ代わりのジャージ上下を脱ぎ捨て、適当な シャツとGパンに着替えた。小さな財布を尻ポケットにねじこんで、携帯を持ったら準備完了だ。 「おっけー」 「顔くらい洗ってきたら?」 「あ、そっか」 いかんいかん。忘れてた。 僕はいそいそと洗面所に向かう。コックを捻り、温い水をすくって顔面を擦る。 ひとしきり洗い終わると、僕は手をふきもせずに歩のもとへ戻った。いたずら心が働いて、両手をぶるんと振って水を 彼女の顔に飛ばす。 「ほーれっ」 「きゃっ…ちょっと、ふざけないでよ!信じらんない!」 「んだよ、そんなに怒んなくてもいいだろ」 「お、お化粧が落ちちゃうじゃない」 そんなもんか? 水に過剰反応した歩は、何かを確認するようにしきりに水のかかった頬あたりを摩っている。なにをおおげさな、と僕は 肩をすくめた。 「ま、いいや。じゃぁ行こうか」 「どこに行くの?」 「さぁ。公園かな」 気の向くままに、徒然に。それが僕らのデートスタイルだ。 アパートの玄関に鍵をかけてから歩に手をさしだすと、彼女は赤くなってはにかんだ。ゆっくりと右手を僕の左手に添わせ、 指を絡めてくる。 歩。僕の、かわいい歩。 今日こそ辿り着く「キス」という行為に想いを馳せ、僕の気持ちは昂揚していた。 「ちょっと曇ってるね」 「まーこんなもんだろ」 「午後の降水確率75パーセントらしいよ」 「まじで?それって結構確実に降るじゃん。傘ないんだけど」 「持ってないの!?嘘!どっかで買おうよ」 「えぇー?いらないだろ」 他愛もない会話を続けながら20分ほど歩いた。緑に囲まれた小さな公園が、そこにはあった。低いポールで外界と遮られた 入口から、僕らは足を踏み入れた。日曜の午後、普段なら駆け回る小さな子どもや散歩中の老人で賑わっているが、微妙に 下り坂な天気も手伝ってか人影は疎らだった。 僕達は1つの簡素なベンチを選んで、並んで腰かけた。曇り空のため光はささず、冷たい風が吹く。薄ら寒い中で僕達は 身を寄せ合った。 「ねぇ歩」 僕は唐突にきりだした。鼓膜の奥で、自らの鼓動の音が響く。規則正しく、どく、どく、どく。 限りなく零に近い、しかし零になれない距離から歩がなぁに、と応えてくる。 「キスしていい?」 「嫌」 「え、えーと…キス、してもいい?」 「だから嫌だったら」 なんてこった。僕は天を仰いだ。微かに頬を染めて満更でもない顔をしながら、歩はその口で拒絶の言葉を吐いた。 ベンチの前を通りすがった爺さんが、ぎょっとした顔で僕らを見た。失礼な。傍目から見たらいちゃこいてるカップルに 見えるかもしれないが、僕は今一世一代の決意を簡単に一蹴されてしまったところだというのに。 恐怖におののくような表情で立ち去る老人の背中をちらりと追って、歩は照れるように足元を見つめた。 「だってここ、知らない人もいっぱいいるじゃない。恥ずかしいもん」 「ほっとけばいいよ」 「無理だから。するなら颯太の部屋に帰ってからでいいじゃない、ね。ていうか、雨降りそうだしもうちょっとしたら 戻ろうよ」 もっともらしい彼女の言い分に僕は首を振った。横に。答えはノーだ。 何が悲しくてあんなゴミの山のような場所で初めてのキスを交わさなきゃいけないんだ。ロマンチックも何もないじゃないか。 僕は今日どうしても、この公園で歩とキスして帰りたい。特に理由は、ない。 結局お互い譲らず、もうしばらくベンチでのんびりすることにした。 僕らはいつものように他愛もない世間話をする。昨日のテレビのこと、大学のこと、流行りの芸人のこと、近所にできた おいしいカフェのこと。 歩はよく笑った。ころころと子供のように笑った。僕は、それがとても愛しかった。 触れている部分から歩の体温が伝わってくる。暖かい。歩が隣にいる心地よさと昨日の睡眠不足も手伝って、僕の意識は じわじわと睡魔に侵されてきた。瞼が重い。やっぱり昨日ちゃんと寝ておけばよかった。 頭のどこか遠いところで僕を必死に起こそうとする歩の声を聞きながら、僕は微睡みの中に落ちていった。 あぁ、なんだか気持ちいいな。 夢の中で、僕は1人の男性と対峙していた。かっちりとした黒いスーツに身を包んだ男性だ。首から上は、陰になっていて よく見えない。それが男の全身をより黒く、不気味な印象にしていた。 彼は人差し指を立て、軽い口調できりだした。 『雨に気をつけろ』 雨? あぁそういえば、75パーセントだって歩が言ってたっけ。意識だけで納得する僕に、何かがポツリと落ちてきた。 ポツリ、ポツリ、ポツリポツリポツポツポツポツ… 雨だ。 激しくなる雨音の中に、歩の悲鳴を聞いた気がした。 顔に冷たいものが当たる。僕はそれを振り払うようにぼんやりと顔の前で手を振った。さらに何滴が落ちてくる。僕はまた 振り払った。それに対抗するようにみるみるうちに雨は大粒になり、激しさを増す。 やっぱり歩の言うとおりどっかで傘を買うべきだったかな。 と、その時。 空気を切り裂くような歩の悲鳴で、僕は飛び起きた。 「歩!?」 隣に座っていたはずの彼女がいない。悲鳴は正面から聞こえた。 僕は、見た。 雨に打たれる歩は、避けるように懸命に腕を振って体を捩る。それは、とても滑稽なダンスに見えた。 歩の体が、雨に濡れた部分から黒く変色していく。まるで染みが広がるようにじわじわと体中を浸食していく。 なんだ、これは? 僕は眼前の光景に固まっていた。そのうちにも歩の体はどんどん雨に侵され、腕の表面から何かがボロボロと零れ落ちる のが見えた。 歩は泣いていた。どこか雨をしのげる場所を求めて駆け出す。瞬間。 ボロボロボロっ 歩の右足が、根元から崩れた。歩の体がバランスを崩して地面に転がる。倒れた彼女に雨は容赦なく襲いかかった。 歩が絶叫し、次いで僕に向かって泣きじゃくる。 「やだっ見ないで、見ないでよぉっ…」 僕は弾かれたようにベンチを飛び出した。ズボンが濡れるのも構わず歩の脇に膝をつく。 歩の体は、溶け出していた。 崩れてしまった彼女の右足に目を向けると、そこにはただ黒い泥の塊があるだけだった。 驚愕と同時に僕は―――――納得した。深く、深く。 瞼の裏が鈍く痛む。 僕は、襲い来る雨から歩を守るために、覆い被さるように彼女を抱きしめた。泥の匂いがした。 頭の中の記憶がスパークする。 『君は、もう1度彼女に会いたいか』 あぁ会いたい。会いたいさ。 僕にそう言ったのは誰だ?いつだ? そうだ、あの日だ。 あの日、あの日あの日あの日あの日………… あの日。 最愛の歩を失って絶望にくれる僕の前に、その人物は現れた。 真っ黒なスーツに身を包み、気配もなく僕の背後に立った男はただ一言を告げた。 『君は、もう1度彼女に会いたいか』 会いたい。当然だ。 僕は、歩にもう1度会いたい。 涙ながらに叫ぶと、彼はほほ笑んだ。 『それなら君に、この泥人形(ゴーレム)をあげよう』 水には弱いから、濡らすなよ。 とそれだけ言って、男は忽然と姿を消した。 そこに残されたのは、呆気にとられた僕と2人の歩。 1人は傷だらけになり、1人は綺麗な体のままだった。 僕はきれいな歩を抱きかかえ、部屋を出た。 大好きな歩自身を、そこに置き去りにして……… すべてを思い出した。 雨が強く打ちつける草の上で、半分溶けかけた君を抱きかかえながら、僕は途方にくれていた。 そうか、歩はもういないのか。 歩は死んだ。歩はもういないけれど、この数日僕と過ごしてくれたこのゴーレムも、確かに「歩」でいてくれたんだ。 僕は咽び泣いた。涙がとめどなく溢れてきて、土に還ってゆく歩の体に滴った。涙に濡れた部分もまた、歩から土に 溶けていく。 「歩、歩、歩…っ」 歩が溶けてしまう。土になってしまう。僕が苦し紛れに残した最後の欠片も、還ってしまう。 泣くな、涙を止めて、彼女を見ろ。 そう心を叱咤しても、心の底から湧きあがる激情を抑えることができない。 「……そ、うた…」 半分溶けた唇を懸命に動かして、消え入るような声で歩が僕を呼んだ。一言も聞き洩らすまいと、僕は唇が触れそうな位置 まで顔を近づけた。 「歩、どうしたの歩っ」 「…きす、して」 小さく懇願した歩の顔には、確かに微笑が浮かんでいた。 最後の願いを聞いた僕の頬に、また新たな涙の筋ができた。 歩の両頬を掌で優しく包む。べちょり、と泥が潰れる音がした。 歩は静かに瞳を閉じた。僕は、歩を見逃すまいと歪む視界を目一杯広げた。 深く、深く口づける。角度を変えて何度も。変える度に、僕の掌から濡れた泥が地面に落ちた。 歩…歩、あゆむ、あゆむあゆむあゆむ…っ! 心の中で何回も名前を呼んだ。帰ってきて。僕のところへ。 唇を重ねたまま、祈るように目を閉じた。次に目を開いたら、歩が微笑んでいますように。 どれくらいの時間がたっただろう。それは数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。 とにかく僕は目を開いた。幾許かの期待を込めて。 僕の目に飛び込んできたのは、自らの腕に抱いた黒い泥の塊だった。大量の泥が、僕の服と地面を汚している。真っ黒に 染まった地面の上に、泥人形の媒体となった一房の髪の毛が横たわっていた。 土塊になった君を強く抱き締めて、僕はただ泣いた。 最初で最後のキスは、湿った土の味がした。 世にも儚く口づけて ←BACK