この世の中は無情だ。
 疫病神は一度捕まえた獲物を決して離さないのだろうか。
 成人してからは何をやってもうまくいかなかった。家族とは死別、財産は家に勝手に乗り込んできた親戚にねこそぎ奪われた。一念発起した行商は失敗、結局借金まみれで家まで差し押さえられた。宿に泊まる金もなく、知り合いの馬小屋で数日雨風を凌いだ。
 なんだかもう疲れてしまったんだ。
 だから、僕はもう終わりにすることにした。
 彼女との約束を果たすために海へ行くことにした。



 村から半日ほど歩いて渓谷を抜けると、切り立った崖に出くわす。渓谷に咲く白い花々の鼻につく匂いがだんだん潮の香りに変わっていく。開けた崖下には、雄大な海が広がっていた。伸び放題にされた草花に足をとられないように崖の縁に近寄る。見下ろした先では、白波達が岩の壁に衝突し、粉々に砕け散ってまた海の中へと還っていった。
 燦々と輝く太陽のあたたかさ。磯の香り。寄せては返す波の音。それら全てを体内に取り込むように、僕は大きく息を吸った。ささくれ立っていた心は、今では凪のように穏やかだ。

――約束を覚えているかい?僕は君に会いに来たよ。

 深呼吸の後、僕は服を脱ぎ出した。これから彼女のところにいくのに、こんなものはいらないんだ。シャツとズボンを脱ぎ、綺麗に畳んで地面に置いた。靴も脱いでその隣に添えた。最後に下着を取り払い、生まれたままの姿で僕は崖っぷちに悠然と立った。
 僕は最後に一度だけ青空を見上げた。一羽の白亜が太陽の光に向かって飛ぶ。眩しくて瞼の裏に痛みが走っても、この光景を焼き付けておきたかった。
 大きく息を吸った後、ゆっくりと倒れるように崖から身を投げた。耳元で風がひゅうと音をたてる。永遠に続くかと思われた浮遊感が終わるのは突然で、一瞬の身を砕かれるような衝撃の後、僕は吸い込まれるように冷たい水の中へ沈んだ。

 どんどん沈んでいく体。まるで鉛にでもなったようだ。
 ユラユラ揺れる太陽が遠ざかっていくのをぼんやり眺めていた。これで本当にお別れだ。

『いらっしゃい。アナタを待っていたわ』

 頭に直接響いてきた深く甘い声。母の如く優しいそれに包まれて、身を委ねるように僕は目を閉じた。

 これでやっと、僕は解放されたんだね。

 セイレーンの蒼い魔女が、僕の魂を海の底深くに沈めて、真珠のかすがいにそっと閉まってくれた。



君の小指に真珠のキスを



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