旅とは、世界を愛することだ。  生ける伝説がそう吟じたのを、君は知っているだろうか。  世界を愛するために、大地を踏みしめ、風に乗り、太陽を抱き締め、空を駆け抜けろと彼の人は言った。花を愛で、草木に触れ、生きとし生けるものすべてと手を取り合えと。  目を開いてごらん。世界はこんなにも美しい。愚かで汚れた俗世でも、世界は変わらず美しい。  旅に出よう。彼は言う。何度でも、遠く響く声が微かでも、喉を枯らして幾度も叫ぶ。旅に出よう。君の物語はまだ幕を開けたばかりだ。  旅人<ライゼ>達が諸手を挙げて、君の門出を祝福するだろう。





 閉ざされた王国、ネフレイア。大陸の北側、山の中腹に都を構える小さな国だ。120年の長きに渡り人や物資の出入りを制限し、独自の文化と体制を作り上げてきた。他国からの勧誘・侵略にも頑として態度を崩さない鎖国状態の小国にも関わらず、貴重な銀山を保有するネフレイアは豊かな生活水準を保っていた。  都の最奥にそびえる王城は小振りながら、その堂々たる佇まいは人々の羨望を集めた。築300年を越えようかという城を支える石には、古代の占術に基づいたという奇妙な文様が刻まれている。アーチ型の石門を潜り城内に入ると、巨大な鷲が大きく翼を広げたタペストリーが視界に飛び込んでくる。廊下や部屋には、唯一国外へ出ることを許された商人達が持ち込んだ高級な調度品が並べられ、小国ながらも財力の豊さを見せつけていた。 その城内にある軍の練兵場は今、青い訓練服に身を包んだ人影で溢れかえっている。太陽に照りつけられ乾燥した地面からは砂埃が立ち上り、視界を僅かに霞めていく。平常2個連隊以上の人間が丸ごと整列することのできる程の広さを持つ訓練場だが、今はその半数ほどの人間が各々木刀を持って集まってきていた。振りあげ、殴りかかり、蹴り飛ばし、自分と相対した者手当たり次第に戦いを挑んでは討ち果たしていく。相当な乱戦状態だ。木刀同士が殴打する音や人々の怒号が溢れかえり、その騒音に思わず耳を塞ぎたくなる。  ネフレイア国王もそうだったのだろう。練兵場を一望できる壇上で顔を顰めていた。豪奢な椅子の肘かけに寄りかかったまま、右の人差し指で耳を塞ぐ。自らの左後方に控える男に、叫ぶように声を投げかけた。 「今回の試験は相当血の濃い奴が集まったようだな。これは、篩のかけがいがあるというものだの!」  声をかけられた若い男は、慇懃な態度で一礼する。青い甲冑に透きとおるような銀の髪が映える。甲冑の左胸に掲げられた白百合の紋章は国軍の将軍であることを指していた。 「4年に1度の仕官のチャンスでございますから、皆一様に気合が入っているのでしょう」 「望むところじゃ!このネフレイアを守護する軍隊に志願しようというのなら、それくらいの気概がないとやってられぬわ」  豊かに茂った鳶色の口髭を震わせて、国王は快活に笑う。甲冑の青年は固い表情を崩さずに練兵場の混戦をじっと見つめていた。  ある一点でわっと一際大きな叫び声があがる。よくよく耳を凝らしてみると、男達の野太い悲鳴が聞こえてきた。最初は小さなものだったが、竜巻のようにどんどん周囲を巻き込み大きな騒ぎになっていく。国王もその異変に気づいたらしく片眉をあげた。  青年は、群衆に紛れて風のように舞う夕焼け色を視界にとらえた。その影が動く度に悲鳴が響き、屈強な男達の体がまるで紙きれか何かのように軽々と宙を舞う。 「活きの良い奴がおるな!何者だ?」  国王は声に喜色を滲ませて思わず椅子から身を乗り出した。  明らかに並はずれた強さを発揮するその者を、他の試験者達は自然と遠巻きにしていく。ドーナツ状にぽっかりと穴があいたその空間に、夕焼け色の影はすっくと立っていた。遠目にもわかるほど小柄なその人物は、肩にかかる橙色の髪をうっとうしそうに掻きあげた。ふと空を仰いだ瞬間に国王の後に控える青年の姿を認めたのだろうか。周囲の乱戦にも関わらず、呑気に青年に向かって手を振ってきた。 「…あれは、女、か?まさか!」  国王は驚愕の声を上げる。背後から忍び寄ってきた男に見事な回し蹴りを喰らわせた橙色は、よく見ると確かに少女のような体型を持っていた。胸はまるでないにも等しいが、伸びた四肢はすらりと長く、腰から腿にかかるラインの湾曲は男には持ち合わせえないものだった。  甲冑の僅かに擦れる音がする。青年が少女に片手を軽く挙げて応えていた。 「彼女はとある伝説の忘れ形見ですよ」  青年が静かに呟く。 「世界に愛されて、生まれてきた子です」  それまで鉄仮面のように微動だにしなかった青年の頬は、誇らしげに緩んでいた。



小1時間もしただろうか。試験の終了を告げる、将軍の凛とした声が練兵場に響く。地面には死屍累々といった様子で完全にのされた受験者達が転がっていた。息をきらせ打撲をこさえながらもしっかりと自らの足で立っている者達だけが、将軍の言葉に耳を傾けていた。 「これより、合格者を発表する」  丸めた羊皮紙をくるくると広げ、将軍は記された名前を次々と読み上げていく。呼ばれた者は一般兵士の誘導で脇のスペースへ移動していった。1人、また1人と名前が告げられ、歓喜の声をあげながら前に進み出る。 「97番、ニコラス・シーカー」 「ほいほい」  中肉中背の男がのっそり歩み出てくる。職業柄都に住んでいる者の顔は大体把握している将軍だったが、この中年の男の顔にはまったく覚えがなかった。ネフレイアの仕官試験にはこうして国外からわざわざ受験しにくる者も少なくない。小さくとも裕福で平和な国に憧れをもってやってくる。一度市民権を獲得したならば許可なく国外に出ることもままならない制限された生活を送ることになるのだが、そのあたりを失念してやってくる者は後を絶たない。せめてそこは了解していてくれと思いながら、男を誘導係の方へ流した。 「121番、メイベル・マインド」 「はぁ〜い」  妙に間延びした声を出して、豊満なバストを揺らしながら女性が進み出た。むさい男ばかりの中でその姿は異質そのもので、周りの者は涎でも垂らしそうな顔で、たわわに実った見事な双丘に釘付けだ。 「ねーぇ将軍さん、私制服が入るか心配なの。あのかったい制服で胸をつぶしたくないのよぉ。サイズってご用意してもらえるのかしら」 「あとで申請しなさい…さっさと向こうへ行け」 「あーん」  くねくねと身をよじりながら女性は一般兵のもとへ向かう。よろしく兵隊さん、と前かがみの姿勢で片目を瞑ると、一般兵士の1人が鼻血を噴いてその場に昏倒した。年若い彼には刺激が強かったのだろうか。将軍は頭が痛いというように人差し指でこめかみを押さえた。ぞんざいに右手を振り、倒れた兵士を屋内に運ぶように指示してやる。 「189番、ララ・ステイグマ」 「はい!」  あらかたの合格者が名を呼ばれただろうか。ある1人の名前が告げられた瞬間、わいわいと騒いでいた受験者達が水を打ったように静まりかえった。溌剌とした声で応えたのは夕焼け色のさらりとした髪を持つ少女。屈強な男達が溢れる中その小柄な身体は非常に目立つ。その身体の小ささとは裏腹に堂々とした態度で集団から前に進み出た。受験者達の目を引いたのは先程の型破りなパフォーマンスとそれにそぐわない小柄な体躯だけではない。彼らの視線は少女――ララの左側面の首元に集中していた。たわわに実った稲穂に漆黒の蛇が絡まっている焼印、それはネフレイアにおいて罪人を示す戒めの烙印だった。 「<烙印の子>だ」  誰かが呟いたのをきっかけに、集団の中で囁きが波紋のように広がっていく。 「都のはずれに住んでる…」 「あぁ、あの家か、」 「育ての親が先代国王の暗殺を謀ったとか」 「それで、あの…」 内容は当然耳に入ってくるはずだが、しかし少女は全く興味がないといった風で受験者達には目もくれなかった。しっかりとした足取りで将軍の前に歩み出る。銀の彩光が散る瞳は爛々と輝いていて、将軍をまっすぐに見上げた。将軍は一瞬頬を綻ばせかけるが、すぐに表情を引き締めて淡々と告げた。 「合格だ。係の者から制服と配属票を受け取りなさい」 「うん。ありがとう、シャンディ」  いたずら気に瞳を閃かせ、わざと自分のことを愛称で呼んできた少女を軽く睨んでやる。案の定、受験者達の間に再度ざわめきが起こった。なぜ罪人の娘ごときが、ネフレイア国軍で一番の出世頭と言われるシャンドル・ジャスティ将軍と親しげなのだ。睨まれたことなど気にもとめず、ははっと快活な笑い声を洩らしてララは誘導の一般兵のもとへ向かう。あの勝気な性格が災いしないと良いが。シャンドルは胸中でこっそり溜息を吐いた。 「204番、エリオス・リベリア」 「はい」  進み出てきたのはまだ年若い青年だ。背はすらりと高く、ざんばらな黒髪を赤いバンダナで適当に抑えている。切れ長の目が、暗く鈍い光を放っていた。 「君が最後の合格者だな。向こうへ移動して制服と配属票を…」 「この国で一番強いのはアンタか?」  お決まりの口上を述べるシャンドルを遮り、青年が低い声で呟く。不意をつかれたシャンドルは軽く瞠目し、相手の意図を推しはかろうとじっと見つめた。しかし無感情なその顔からは何も読み取ることができない。 「私は未だ修行中の身だ」 「ネフレイア軍のシャンドル・ジャスティ筆頭将軍は最強の剣士で、一番の出世頭と聞いた」 「…どこでその根拠のない噂を仕入れたか知らんが、真に強い者は己の強さを吹聴したりはしない。それに、ネフレイアには上将軍や大元帥といったケタ外れの馬鹿力を持った方々がいらっしゃる。彼の方々に比べれば私などそこらを這いまわる赤子のようなものだ」 「そうか…なら、いいんだ」  ぼそぼそと言った後に軽く一礼をして、青年は合格者達の輪へと入っていった。  シャンドルは腑に落ちないまま集団に見え隠れする深紅のバンダナを眺めていたが、やがて軽く一息つくと羊皮紙を巻き戻して声を張り上げた。 「今回の試験の合格者は以上である!落選者はすみやかに城の敷地から退出するように。合格者は配属書に記された上官のもとへ早急に迎え!その上官のもとで3カ月の研修訓練を行うものとする。以降の指示は各々上官に仰ぐように!それでは、解散!」  言葉の終了と共に練兵場に法螺の音が鳴り響く。腹の底に響いてくるような重低音に、皆は一斉に移動を始めた。落選者はぐだぐだとした足取りで、合格者は慌てて小走りになる者や行き先がわからずうろうろする者など多様に、徐々に練兵場を去っていく姿を見送りながらシャンドルは先程の青年の言葉を反芻していた。 ―――この国で一番強いのはアンタか?  まったく同じセリフを、吐いたことがある。身の程知らずも甚だしいと、当時の自分を叩き倒して再教育しに戻りたいくらいだ。 (最強の戦士なんて、もうどこにもいないさ)  もう何年も前に師匠から譲り受けた剣の柄を握り締める。  10年も前になる。生ける伝説と称され詩歌や物語でも謳われたネフレイア最強の戦士アルベルト・ステイグマは、国王暗殺の罪状で無残にも公開斬首に処されたのだった。  あの日は、英雄の死を悼むように大粒の雨が地面を殴りつけるように降り注いでいた。  遠いようで近い、やはりもう遥か彼方へ過ぎ去ってしまった昔の出来事だ。




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