雪の積もった墓石が話しかけてきた。 そんな、冬の夜のこと。
しんしんと、雪が降る。白い靄が江戸の町を覆い隠していく。とどまる気配などなく、ただ降り積もって いく。この世のすべての穢れが埋もれていくようだ。 「うぅ…ひっぐ、ううぅ」 呻き声と、しきりに鼻をすする音が夜の帷に吸い込まれる。一人の侍だった。侍は、まるで懺悔をするかのように墓場の中で倒れていた。否、蹲っていたと言うべきか。髷は乱れ、銀世界の中で映える漆黒の小袖は涙と雪で濡れている。武士の魂であるはずの二本の刀は、無造作に地面に打ち捨てられていた。侍はとめどなく涙を流し、時折思い出したように、震える手で地面の雪をわし掴んで自らの袖に擦りつけていた。 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をさらに歪める。 「人を…某は、人を斬ってしまった…」 「いや、しかし仕事だったのだ。某は、雇われていたのだ…」 「斬ってしまった、名も知らぬ者を」 「守るためには、仕方なかった」 「某は、もはや人殺しだ、人を、殺した…」 寒さと怖れから歯を鳴らし、ぶつぶつと言葉を紡いでいく。再び雪を掴み、袖へと刷り込む。よく目をこらせば、漆黒の着物には赤黒い染みができていた。穢れを浄化できると信じているかのように、白い雪を袖に押しつけていた。泣き声と、嘆きと。墓場に懺悔が染みてゆく。 ふいに、一陣の風が吹き抜けた。侍は手をとめ、顔をあげる。半開きになった口からは、もはや声にならない呻き声が漏れていた。震える己の両の掌を見つめる。刀を握っていた手。刀を振り上げた手。刀を、振り下ろした手。肉に刃が食い込む。鈍い感触。噴き出す血潮。あがった絶叫は、自分のものだったか、相手のものだったか。 「あぁ…あああああぁぁぁ…っ」 「おいおい、お侍が人を殺して泣くのかい?」 「…!?」 不意に、他人の声が耳をうった。侍は弾かれたように辺りを見回す。四方に人影は見当たらなかった。 「だ、誰でござるか…?」 「こっちだ、こっち」 声に導かれて顔を向けた先は、とある墓石だった。侍は、涙や鼻水を拭きもせずにきょとんとそれを眺める。と、突然墓石から手がはえた。 「ひいぃ!?」 思わず尻をついたまま後ずさる。が、雪の降り積もった地面に埋もれた体は、たやすく動いてはくれなかった。侍の顔がさぁっと青ざめた。 「あ、ああああ妖でござるかっ!?もももし某に憑こう喰おうなどと考えておるのならやめておけ!そ、某は、某は…」 「は?ちょっと、待てって。何勝手にヒトを妖怪扱いしてんの」 「某はぁ、人殺しでござるぅ…ううぅ、うああぁぁぁ」 「おいおい、泣くのかよそこで。勘弁してくれよなぁ」 再び蹲って泣きだした侍に、墓石は呆れたような声を出す。その声も耳に入らない侍は、自分の運命に絶望していた。 もう駄目だ、自分はこの妖怪に喰われてしまうのだ。きっと人を斬ったことに対する仏の罰だ。故郷の母上兄上妹よ、空前絶後の不肖息子ですみません。某は大地の糧にさえもなれず、ここで果てるさだめのようです。さぁ妖よ、どうせならその牙で一思いにやるがいい。 真白な雪の上で、まるで団子のように丸くなった侍の呻き声だけが響く。
ゆっくりと、数呼吸分の時間が過ぎた。妖怪の牙は襲ってこない。はて、と思った侍は、さくりさくりと雪を踏みしめる音を聞いたような気がした。恐る恐る面を上げる。 眼前で翻る瑠璃紺に思わず目を見張る。鮮やかなその色は、真白な雪の中で自己を主張しながらもゆるやかに溶けあう一体感でその場に佇んでいた。 「なんだ、まだ若いじゃねぇか」 「は…?」 さらに視線を上げると、煙管を葺かす男の顔。口元には笑みを浮かべ、からかうような目線で侍を見降ろしていた。下から見上げただけで分かるほど、すらりとした背高な体躯。役者のような涼やかな顔に思わず見とれてしまう。男は膝を折って侍と目線を合わせた。煙管を口から放し、煙を吐く。つい、と袖を上げ、侍の頬を拭うような仕草をした。侍は、そこで初めて自分の顔が涙と鼻水まみれであることを思い出す。慌てて自らの着物で顔をごしごしと擦った。それがよほど酷い顔をしていたのだろうか。男は、煙管をもて遊びながらけらけらと笑った。惚れ惚れするような笑顔だった。 「蕎麦でも食いにいくか」 突如そう言って立ち上がり、侍の返事を待たずに男は雪を踏みしめて歩き出す。数歩進んで、くるりと振り向いた。 「そこの二本、きちんと拾ってこいよ。人の命を背負った重てぇモンだろうが」 侍は、ぼんやりと白に埋もれる自分の刀を見つめた。 (人の、命…) 左の胸が、ずきんと痛む。かき集めるように大小を手元に寄せると、抱きかかえてのろのろと立ち上がった。 (蕎麦…) 言われれば、腹が減っているかもしれない。ついて行くべきだろうか。 普段からの習慣で刀を腰に差そうとして、手が止まる。人を殺す道具。人を殺した、道具。鞘を掴んだ手が震えていた。 感覚がまた、甦ってくる。肉を裂く音がする。血の臭いがする。そして… 「おーい」 声をかけられて、我に返った。男が少し先でこちらを見て待っている。 手の中の刀に視線を戻した。黒光りする二本。溜め息をついて、腰に差す。 行くぞ、という男の声に誘われるように、侍は瑠璃紺の背中を追って歩き出した。 刀を下げた左半身が、普段より酷く重たく感じた。
「美味いだろ?」 「美味いでござる」 ずぞぞ、と蕎麦をすする音がそこかしこでする。自らも麺をもそもそと咀嚼しつつ、侍は目の前の男を見た。 背は、侍より頭一つぶん高かった。総髪に髷を結い、瑠璃紺の着物を優雅に着流している。煙管をゆるゆると葺かし、纏う雰囲気はどう見てもやくざ者だ。なのに… (どこか懐かしい気がする。何故だろう) 侍は、会ったばかりのこと男に奇妙な親しみを感じていることを自覚していた。 男の前には、椀が置かれていない。侍が食うのをただ見ているのみだった。 「おぬしは、食わないのでござるか?」 「俺かい?俺はさっきすませちまった」 そう言って、またあの笑みを見せる。 (まるで、少年のように笑うのだな) そんなことを思いつつ、箸を口に運んだ。 男に連れてこられたのは、日本橋通りからはずれた小さな蕎麦屋。足を踏み入れたとたん無骨な店主の射るような視線に迎えられた。侍は一瞬で委縮してしまったのだが、男はさして気にする風もなくさっさと奥の席についてしまった。 仕方なく、おずおずと後に続く。そして今、蕎麦を馳走になっているのだった。 男が、にやりと口端を上げる。煙管の先でこちらを指してきた。 「あんた、浪人だろ?」 「う、そ、そうでござる…何故、おわかりに?」 「雰囲気だよ。そんなに背ぇ丸くしてビクついて、いかにも駄目そうじゃねぇか」 「世の中、駄目な浪人ばかりとは限らぬよ」 「けど、お前さんは駄目なクチだろ?浪人」 「…某、秋谷雪親という名があるでござる」 「雪親か。俺のこたぁ陽、とでも呼んでくれ。よろしくな」 「こちらこそ」 箸を一旦置いて、頭を下げる。するとまた少し笑われてしまった。 「雪親、お前年はいくつだ」 「え、十九、でござる」 雪親が答えると、陽は今度こそ腹をかかえて大声で笑い出した。 「若ぇとは思ってたがやっぱりな!十九にもなってベソかきながら妖怪に襲われちまったわけだ」 「妖は陽殿だったではござらぬか…」 「いやぁ傑作だったぜあン時のおめぇの面は!涙と鼻でべしょべしょにしてよぉ、刀もほっぽり出して泣きやがって。坊主、小便もらさなかったかい?」 「そ、そんな大声で恥ずかしいでござる!やめてくだされ…」 雪親は慌てて周囲を見回す。が、周りの客は雪親達にまったく興味はないようで、変わらず蕎麦を口に運んでいた。 ありがたいことだ。ほぅと息をついて、雪親も箸を進める。美味い。 「雪ィ!」 「はひっ!?」 正面から突然檄が飛んできた。雪親はびくっと肩を震わせて思わず箸を取り落とす。 「おめぇさっきからもそもそ食いやがって。蕎麦は喉で鳴らして食うのが江戸っ子ってもんだろうが」 「そ、某は江戸者ではござらぬ…まだ一年も…」 「馬鹿。江戸に来たら江戸の流儀に従うんだよ」 「そう言われても…」 「ほら、やってみろよ」 「うぅ…わかったでござる」 促されるまま、雪親は麺を一掴みとった。口元へ運び、勢いよく喉で吸い込んでみる。 「…ぐっ、げふげふんげげはぁっ」 詰まった。 「はははは!何やってんだよ馬ァ鹿!」 陽は何故か手を打ち鳴らして大喜びだ。 無理だ。やはり自分には無理だ。苦しみのあまりむせかえりながら、雪親はもう一生やるまいと心に誓う。 雪親の咳が落ち着いても、陽は腹を抱えて笑い続けていた。ようやく収まった頃には、笑いすぎて涙まで浮かべている。 「っはは、お前おもしれぇな、最高」 「…褒められた気がしないでござる」 「そう拗ねんなって。ほら、食い終わったか?そろそろ行こうぜ」 「え?行くって…どこへ」 「さーなぁ。とりあえず、一晩付き合え。お前気に入った」 「や、某、今日はそのような気分では…」 「いいんだよ、鬱憤溜めると病になっちまうぞ」雪親は眉根をひそめた。 鬱憤、などと簡単に一言で片付くものではない。しかし一人になりたくないのも事実だった。今彼と別れて長屋に戻れば、帰りを持つ人はいない。再びたった独りで後悔の念に苛まれるのは、正直怖かった。 不思議だ。数刻前までは酷く悲しく、怖く、悔やんで、絶望していたのに。今はこんなにも落ち着いている。 (陽殿の、おかげか) そう思うと、もう少しこの奇妙なやくざ者についていってもいいような気がした。 不意に、客が漬け物を頼む声が耳に入る。ちらりと陽から目線を外すと、店の主が奥へと姿を消すところだった。 それを合図にしたかのように、陽が席を立つ。つられて雪親も慌てて腰を浮かせた。 「勘定は俺が済ましとくから、先に外出てろよ」 「あ、某やはり自分で…」 「いいんだよ。払ってやるってんだから黙って受け取れ」 「しかし、出会ったばかりの御仁に馳走になるなど申し訳ない」 「あーもうぐだぐだうるせぇな。悪ぃと思うならそこらにひとっ走り行って酒でも買ってきやがれ!」 「う、し、承知したでござる」 結局押し負けた。 かたじけない、と頭を下げる。のれんを分けて、雪親は外へ足を踏み出した。冷たい空気に思わず身震いする。 こんな夜分にまだ酒を売ってくれるところなどあるだろうか。
「簡単に使い走り引き受けちまって、武士の矜持はねぇのかよ」
からかいを含んだ陽の言葉を背に受けて、ただ苦笑した。 そんなもの、持っていたって何の救いにもなりはしないのに。
吹きすさぶ冬の風は、容赦なく体を切り裂いていく。 腰に下げた二本は、先ほどよりもさらに重く、雪親の心にのしかかってきた。
〜続
←戻