冷たい大理石の床に、衣擦れの音が細く響く。広い長い廊下を足早に歩いていたクリスは、顔をあげた。正面から近づいてくる黒い影。頭から足の先までローブですっぽりと覆われている。顔半分はフードで隠れよく見えないが、知らない雰囲気の人物だった。  クリスが登城するようになって5年。謁見の間がある王城の4階に、定められた時間外に自由に立ち入ることのできる人物はごく限られている。この5年でそのほとんどを覚えたつもりだったが、その影の正体はわからなかった。  沈黙の中、すれ違う。ほんの1秒にも満たない交錯。クリスの黒いプラチナマントと相手のローブが触れあう。微かな風圧でフードが揺れた。のぞく瞳。真紅の光がクリスをとらえる。禍々しいまでの単一の色に、息をのむ。思わず振り返った時には、もう黒いローブの後頭部が遠ざかっていくところだ。 (…まさか、な)  小さく頭を振って、歩を再開する。荘厳な装飾の施された木製の扉の前で立ち止まった。両脇に控えた顔なじみの兵士達が軽く挨拶をしてくる。それに片手をあげて答えつつ、クリスは佇まいを正した。息を吸って、朗々と告げる。 「客員剣士、クリストファー・レーゲル参りました」 「許可する」 「ありがとうございます」  両開きの扉が内側から開かれる。白い大理石に赤い絨毯が敷かれている。手入れが行き届き少しも毛羽立ったところのないそれを踏みしめて、階段の下まで進んだ。肩膝をついて頭を垂れる。 「顔を上げなさい、クリス」 「はい」  さきほど部屋に招き入れてくれたのと同じ声で促され、クリスは視線を上げた。数段上に置かれた大きな玉座に、王が鎮座している。鳶色の髭を豊かにたくわえたその顔は満足げに緩み、しきりにイスの取っ手に彫られた獅子の彫刻を撫でていた。  王の斜め後ろあたりに佇んでいた男が笑いかけてくる。 「おはようございます、クリス。昨晩はよく眠れましたか」 「はい、お気づかいいただきありがとうございます、セイジ将軍」 「今日はいよいよカーニバルの最終日ですね。あなたになら王も私も安心して任務を任せることができます」 「そんな…もったいないお言葉です」 「一部の労働者が、平素の不平を訴える妨害行為を示唆する文書を投げ込んできました。大事のないよう、しっかり舞踏会の警備にあたってくださいね」 「了解いたしました。既に王国警邏に協力を申請済みです。陛下に御心やすらかにお過ごしいただけるよう、全力をもって任務にあたります」  そこで再び1度拝礼する。数秒赤い織物と見つめ合っていると、太い声に名を呼ばれた。頭を上げ、まっすぐに王を見た。  曾々祖父を建国王にもつ現国王は、苛烈な気性で知られた先代とは異なり、温和なことで有名だった。戦乱より平穏を愛し、娯楽に金銭を費やすことを好む。平和な時代に生まれた誰よりも恵まれた王は、自らの顎髭に手をやって小さく頷いた。 「昨日ゴードンから面白い話を聞いたぞ」 「は、父に…でございますか?」 「お前に関わることだが、ゴードンから秘密にしろと言われたのでな。今晩の舞踏会でのお楽しみだそうだ」 「左様でございますか…」 「父からの良き贈り物だ。お前は幸せ者だな、クリストファー」 「ありがたきお言葉にございます」 「うむ。もう下がれ、今晩は頼んだぞ」 「はっ、失礼いたします」  立ち上がり、拝礼。きびすを返してゆっくりと絨毯を進んだ。部屋から足を踏み出すと、背後で扉の閉まる音がした。重厚な音が、王とクリスの空間を遮断する。同時に深く溜息をつく。先ほどの兵士達が笑って「おつかれー」と声をかけてきた。小さく礼を返した。  来た道を戻る。今度は自分の靴音だけが硬く天井に響いた。黒い影は見当たらない。  長い階段を降りて、正面から外へ出た。朝の太陽が容赦なくクリスを包む。手をかざして光を避けつつ、再度溜息を洩らした。 「『幸せ者』、か…」  腰に佩いた剣の柄に触れる。柄頭にはレーゲル家の家紋であるダリアの花をモチーフにした装飾が彫られている。込められた意味は、華麗、優雅、そして威厳。  9年前に決めたはずだ、この花を持つにふさわしい人間になると。そして、大切な人達を守るのだと。  太陽を仰ぎ見ると、ふと幼馴染の顔が浮かんだ。まるでこの青空のようにあけっぴろげに笑う、親友の顔。  彼は今おそらく今夜の警備の準備中で、熊親父にどやされている頃だろう。まるきりやる気などないように戯れ、遊び、それでも与えられた仕事はこなしているはずだ。あそこまで優秀で要領のいい馬鹿を、クリスは他に知らなかった。  それを思うと、昨日の警邏舎でのことが蘇ってきて小さく噴き出す。 (僕もそろそろ、警邏に合流するか)  もう1度、ダリアの輪郭をなぞった。  9年前にこの花を手に入れた。9年間この花のもとに剣を振い、得たものは信頼だった。信頼を保つには、失敗は禁物だった。  任務の遂行。それが第一。  マントを翻し、クリスは警邏舎へ向かうべく歩を進めていった。


「………はぁ」  太陽も正午を回り、カーニバルは終息に向けて最高潮のテンションの高まりを迎えていた。路上で楽器を掻きならす芸人も、音楽に合わせてステップを踏む踊り子も、朝から続けているにも関わらず疲労の色はみじんも感じさせない。  そんな周りの雰囲気に反して、茶色い紙袋を両腕で抱えたまま、マリアは溜息をこぼした。隣を歩くデイビットが眉を上げる。  こちらも買い物の荷物を抱えていたが、マリアの比ではなかった。右に3つ、左に4つを軽々と持ち上げている。前方から風船を持って走ってきた子供を器用に避けた。 「どうしたんですか、お嬢さん」 「…行きたくなぁい」 「何に」 「わかってて聞くの、イジワル」 「すみません」  ちょっと困ったように笑って、デイビットがわずかに身じろぎする。いつものように頭を撫でてくれようとしたのだとわかった。代わりにとでも言うように、彼は明るい声で語りだす。 「いいじゃないですか、普段は行けないお城のホールに綺麗なドレスにおいしい御馳走、うまくいけばかっちょいい侯爵にでも出会ってダンスしてめでたくハッピーエンドってこともありますよ。お嬢さんのかわいさは俺のお墨付きですから、きっと男共が鼻の下のばしてほっとかないです」 「それ、最後あんま嬉しくないんだけど」 「そうですか?舞踏会でモテモテとか、女の子のロマンかと思ってましたけど」 「それって男のロマンじゃないの?」 「はは、そうかも」  言葉に対してあまりそうは思ってない様子で、デイビットは笑った。 (そういえば、大事な人がいるって言ってたなぁ…)  ぼんやりと、昔聞いたことを思い出す。彼のように明るくて楽しくて優しい人に愛される女性は、きっと幸せだろうと思う。それに引き替え自分は、誰と結婚させられるかもわからない。相手を選ぶ権利は、自分にはないのだから。それが、貴族の家に生まれた女の宿命だ。特に、ベラクア家のような没落貴族には。 「お嬢さん」 「なに?」 「嫌だったら、断ればいいんですよ」 「…そういうわけにはいかないでしょ」 「いいんです。お嬢さんの人生なんだから。お嬢さんが犠牲になる必要なんてないんですよ。その分旦那が頑張ればいいんです。お嬢さんは家になんて縛られないで、自分の行きたいところへ行って、好きな人と結ばれて、幸せな家庭を作って、万歳大満足な人生を送ればいい。つーか、そこまでしないと残れないような家名ならいっそ潰せって俺は旦那に言ったんですけどね」  先ほどとはうって変わって真剣な表情で。デイビットは1つ1つ丁寧に、マリアが一番欲しい言葉をくれた。  わずかに視界がにじんで、マリアは慌てて瞬きを繰り返す。雫が睫からこぼれ落ちないように、わずかに空を仰いだ。
 ありがとう
 決して聞こえない感謝を心の中で小さく呟いた。カーニバルの音楽が、耳に膜が張ったように遠く聞こえる。 「何言ってんの。家が潰れたら今まで守ってきた意味がないじゃない。あたしがイイトコにお嫁に行ったら、お金とかたくさんもらえるし、食い扶持1人分減るし、お金に余裕も出てきて兄様もかわいいお嫁さんもらったりして、ベラクア家は安泰だわ。あたしも欲しいモノとか我慢しなくていいし、贅沢できるし、楽しく暮らせてそれこそ万々歳じゃない。だから、ちょっと面倒だけど頑張って今日探してくる」 「お嬢さんは、それでいいんですか?」 「当たり前でしょ」 「さっき『行きたくない』ってぼやいてませんでしたっけ?」 「それは、ちょっと面倒だっただけよ。気にしないで」  自分にも言い聞かせるように努めて明るい声で言った。早く家に帰ろう、と歩を速める。ふと横を見ると、つい今まで隣を歩いていたデイビトがいない。背後でドサ、と落下音がする。思わず振り向いた瞬間、デイビットに両手で髪の毛を掻きまわされた。 「わ、わ、ちょっと!」  髪をぐしゃぐしゃっと撫でられたかと思うと、いきなり心地よい暖かさに全身が包まれた。目の粗い茶色に覆われる。  それがデイビットのジャケットで、自分が荷物ごと抱きしめられていることに気づくまでに数拍を要した。  祭りで賑わっている周りの群衆から、拍手やら口笛やらが聞こえてマリアは顔が一気に上気したのを感じる。  何考えてるんだこの男。 「ちょ、何やってんのデイビット!ここ外なんだから!」 「あーもうお嬢さんてば、本当いい子なんだからなぁ〜」 「はぁ!?」 「ね、お嬢さん。嫌になったらいつでもやめていいから。もし嫁にいったとしても、帰りたくなったらいつでも俺達のところに帰ってきてくださいね」 「…そんなの、兄様が許すわけないじゃない」 「じゃぁ旦那は無視の方向でいきましょう。俺のとこに帰ってきてください。で、一生気ままに楽しくみんなでワイワイ暮せばいいんです」 「………」 「お嬢さん?」 「…デイビット」 「はい?」 「…荷物」  ぴくりとも身じろぎしなくなったマリアを不審に思ったのだろう。顔を覗き込んできたデイビットに、消え入るような微かな声で指摘する。先程彼が放り出した計7つの紙袋が横倒しになって、中身が地面に散乱していた。 「あちゃ、やっちまった」  抱いていた腕をあっさり放し、デイビットは散らばった荷物の方へ行く。マリアは袋を両腕で抱えたまま、呆然と立ち尽くしていた。まだ顔が熱い。同時に、胸から喉を通って、声にならない嗚咽が溢れてくる。右の袖を、両目に強く押しあてた。
 泣くな、泣くな泣くな泣くな。  泣いちゃだめだ。だって、自分はやらなくてはいけないのだから。家を護るために。  本音を気づかれてはいけない。どこまでも優しい、彼のために。
 聞こえないように小さく鼻をすすった。瞬きして、瞳に風を送り込む。震えそうになる声を、必至におさえた。 「もー、変なことするから。あんま時間ないんだからね!」 「あはは、すんません。ちゃっちゃと拾って帰りますか。あ、お嬢さん手伝わなくていいですよ、そのままで」  荷物を手早く直していくデイビットの背中。それにむけて、大声で叫びたかった。  言いたかった言葉を、腹の底に押し込める。彼や兄を困らせるつもりは毛頭なかった。  だから、立ち上がった彼に微笑みをむけた。 「さ、早く帰らなきゃ。夕方には着替えてお城に行くんだから」 「そうですね〜お手伝いしますよ」 「え、何を。着替えを!?」 「モチロン。俺がぎっちりコルセット締めてあげます」 「ぎゃー!絶対いや!!」 「まぁまぁ遠慮しないで」 「してないよ!」  華やかに賑わう雑踏の中、つい先程と変わらずに2人で並んで歩きだす。
 ありがとう
 彼には決して聞こえない言葉を、マリアは何度も胸中で繰り返していた。



 あたりをキョロキョロと見まわす。誰もいない。ジェイは満足そうに口の端を上げた。上着のポケットに手を突っ込み、何か小さな袋を取り出す。草の上に膝を折ってしゃがんだ。小刻みに口笛を吹く。  がさがさっ  目の前の茂みが激しく動いた。と同時に、何か真っ黒で大きな影が背の低い枝を掻きわけて飛び出してくる。 「バウッ」 「よージャッカル。元気か?」  姿を現したのは、1匹の大型犬だった。ジェイの元に駆け寄り、千切れんばかりに尾をふりまわしている。大きな舌で頬と言わず鼻と言わず舐めまわしてきた。ジェイも嬉しそうに破顔して、黒い体毛をわしゃわしゃと掻きまわしてやる。 「ほら、食えよ」  袋から小さく切った肉の塊を取り出し、地面に放る。ジャッカルと呼ばれた犬は待ってましたと言わんばかりにその肉に飛びついた。  むしゃぶり食うその様子を、頭を軽く撫でながらのんびりと眺めていた。  午後の暖かい日差しに包まれ、柔らかい風が1人と1匹を撫ぜる。ほんのりと和むような空間の中で、ジェイは何故か背中に悪寒が走るのを感じた。 「…………ジェイ・クロウ」 「…おっとぉ」  背後から聞こえた地を這うような声に、思わず肩をすくめる。振り向くと、額に青筋を浮かべたダニエルと、その後ろで両手を合わせて必死に謝罪の意を示しているマイクがいた。こいつ、チクりやがったな。内心で小さく舌打つ。  ジャッカルの頭に手を乗せたまま、ジェイは出来うる限り爽やかな笑顔をつくった。 「隊長、お疲れ様っす」 「なぁぁにが『お疲れ様っすー』だ!上司に働かせて、部下の貴様はのんびり犬と日向ぼっこか!?警邏犬に任務前に餌を与えるなと何度言わせたらわかるんだこの海綿脳みそが!」 「え、かいめんってなんすか?」 「黙れ阿呆!さっさと来い!」 「痛っいてててっ!ちょ、耳はない耳は!ひっぱんないでください!マイクてめぇ覚えてろよ!」  ダニエルに耳をむんずと掴まれて引きずり立たされる。そのままマイクめがけて放り出された。たたらを踏みながら睨みつけると、マイクはとぼけたように肩をすくめる。 「隊長にさからえると思うなよ…俺はお前が不思議でたまんない。なんでクリス様はお前みたいな馬鹿を贔屓なさるのかなぁ〜」 「そりゃお前、俺とアイツがマブダチだから」 「ありえないだろソレ。もっとマシな嘘つけよ」 「マジだっつーの!ジャッカルー助けてジャッカルー!」  先を歩くダニエルがさっさとしろと急かしてくる。マイクに腕を掴まれ連れて行かれながら、最後の抵抗に必死に仲良しの警邏犬の名を呼ぶが、ジャッカルはそんなこと意にも介さずに肉を咀嚼していた。  薄情な奴め。  次からは肉の質を落としてやる、とジェイは心に決めたのであった。



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