マリアは必死に走った。  何、何なの、あれ。  息が詰まる。あんなもの、見たことない。動物ではなかった。もっと、何か得体のしれないもの。あんな恐ろしいもの、小さい頃に聞いたおとぎ話にしかでてこなかった。  怖い。怖い怖い怖い怖い。  ドレスの裾を持ち上げるのも忘れて、ただひたすらに走る。  ふと、ある考えが頭をよぎった。  もしかして、思い違い?今見たものは白昼夢か何かで、あんな悪夢のような恐ろしいもの、実在するわがない。  戻ってみようか。戻れば実は全部幻で、さっきの青年が不思議そうな顔で自分を待っているかもしれない。  月明かりに仄かに黒髪をそよがせて、印象深い大型犬のような開けっぴろげな笑顔を浮かべて。  どうしたんだ?いきなり走って行ったりして。そんなことを言ってくれるんじゃないか。  と、突然足がもつれる。バランスをくずした。体が硬い床にたたきつけられる。 「い、た…」  ドレスの裾を踏んだのだ。冷たい床に頬を押し付け、しばらくマリアは呆然としていた。
―――馬鹿、何やってんだ!中入ってろ!
「……っ!」  青年の声が耳に蘇る。  そうだ。やっぱり思い違いなんかじゃない。バスターソードを抜いて怪物と対峙していた、彼の背中を覚えている。  腕をついて、体をおこした。  人間が、あんな怪物に対抗できるわけがない。このままでは彼は殺されてしまう。
―――中にいる金髪の美少年が探してたら、ほっとけって言っといて
 そうだ。彼はそうも言っていた。  マリアは立ち上がると、ドレスを軽くはたく。  今度こそしっかりと裾を掴んで、ホールに向かって再び走り出した。  早く、早くしないと…。  死に物狂いで足を前に運ぶ。廊下が長く感じて、もどかしい。まだ着かないのか、そんな焦燥に駆られていると、ようやく明かりのこぼれる入口が見えてきた。  ホールに飛び込み、急いで人混みに目を走らせる。会場の照明が段々と落とされた。チークタイムだ。仄暗い室内で、貴族達はそれぞれのパートナーと組んで体を揺らし始める。  マリアは舌打ちをしたくなった。暗くてよくわからない。  ふと、薄暗い室内に輝く金を見た気がした。慌てて眼をこらす。いた。貴族然とした、金髪の男。実際そんな人物は腐るほどその場にいたのだが、焦って視界が狭くなっていたマリアは何の疑問も感じずに、最初に目をつけた男の腕を掴んだ。 「ねぇ、アナタでしょ!?早くきて!」 「え?」  振り向いた男は、確かに金髪の美形ではあった。が、その顔には驚きの表情が張り付いている。誰だこの娘。そんな顔をしていたが、マリアは気づかずにまくしたてた。 「早く!早く一緒にきて!このままじゃ、彼が、ジェイが、殺されちゃう!」 「え、ちょっと、何だお前は…」 「お願いだから、来てってば!」  ほとんど半狂乱になりながらマリアは相手の腕をひっぱる。周りの人々が何事かと振り向いてきた。  なぜ来てくれないの。このままじゃ、手遅れに…。  マリアの視界が大きく歪んだ。と、男の腕を掴むマリアの手を、横から誰かが掴んだ。 「え…?」  一瞬、天使を見たのかと思った。男の髪よりもさらに透きとおり、文字通り輝くような金髪。海を思わせるエメラルドブルーの瞳に吸い込まれそうになる。ジェイと同じ年頃の青年だった。青いグラスウェアに、黒いマント。腰に剣をさげた姿は、明らかに他の貴族とは異なる。にも関わらず、醸し出す雰囲気は誰よりも優雅で、毅然としていた。  彼はゆっくりとマリアの指を貴族の腕からはがす。そのまま、頭を下げた。 「お許しください、このご令嬢はこの人混みに少々お疲れになっているのです。別室で休息をとっていただきますので、貴公は変わらずにパーティをお楽しみください」 「ク、クリス殿ではないか…!頭を上げてください!」 「いえ、今回のパーティの警備は私に一任されております。皆さまに心から安心して楽しんでいただくことが任務第一の目的であり、この場で起こりうる事は全て私が責任を負っています。これくらいは、当然のことです」  男も女も関係なく、見る者全てを慮にするような麗しい笑みを青年に向けて、クリスはマリアの肩を抱いた。そのまま静かに、誘導するように人だかりを離れる。  マリアは突然現れた青年に困惑の色を隠しきれない。不安と焦りが綯交ぜになって、泣き声のような呟きをもらす。 「…あの、誰…?」 「お前、さっき『ジェイ』と言ったな」  耳元で低く囁かれる。つい今までとは声音も口調も違う。射抜くような鋭い眼光が少女を捕らえていた。 「あのバカはどこへ行った。案内しろ」




 闇を切り裂くような咆哮が耳をつんざくと共に、頭上をかまいたちのような風が突き抜けた。ジェイはとっさに腰をかがめた自分を褒めちぎる。今のが直撃していたら、人間の頭蓋骨などいとも簡単に粉砕されていただろう。  獅子のような怪物は、捕食動物ごときに攻撃を避けられたことに腹をたてたらしい。その巨体に似合わず軽やかに地面に着地すると、牙を剥いて再び空を仰いで咆えた。  左耳のあたりがぞくり、と粟立つ。視線を左にはしらせると、丸太のような胴体の怪物が迫っていた。たとえるなら巨大な幼虫のようである。自分の2倍の背丈がある幼虫というのも、何とも気味の悪いものだった。  幼虫は丸い口を窄めると、何かヌルッとした液体を鉄砲玉のように吐き出した。後ろに飛んで避ける。液体が地面に飛び散る。じゅわ、と一瞬にして草が溶けた。  酸か。そう思うのと、飛び退ったジェイめがけて再び液体が吐き出されるのは同時だった。とっさに左手を柄から離して顔の前に出す。 「あッつ!」  掌に焼けるような痛みがはしる。思わず呪いの言葉を吐いた。気持ちを切り替えるように、一度、肩で息をつく。そして振り向くことなく、それまで両手で握っていたバスターソードを右手一本で後ろに振り切った。
―――ぎゃうッ
 確かな手ごたえと共に潰れるような声がした。ゆるりと振り返ると、毛むくじゃらの塊が地面を赤黒く染めながらぴくぴくとのたうっていた。残りは2匹。  多少の知性はあるのだろうか。髪発入れずに、2頭が両側から同時に飛びかかってきた。獅子の爪をかわして前に転がる。吐き出された液体を剣の刃で防いだ。転がった勢いを殺さず立ち上がる。剣をもたない手で、目の前にある木の枝を掴んだ。焼けた掌が痛む。一瞬顔を顰めたが、でっぱりに足をかけて一気に体を引き上げた。枝の上にバランスをとって立つ。安定しない足場から、大きく跳躍した。どちらかというと大柄なジェイの体躯は軽やかに宙を舞い、柄をしっかりと両手で握り締めて頭上から一気に振り下ろした。
―――ギイイィイィイィィ
 頭から一刀両断にされた幼虫が、地面にどうと倒れる。傷口から漏れる緑色の体液からは、鼻をさすような激臭がした。  1頭残された獅子と猿の頭をもつ怪物は、警戒しているのかゆっくりと弧を描くようにジェイの周りを歩いている。  左手に冷たい息を吹きかける。じんじんと焼けるような痛みには、それが心地よかった。もう左手は使えない。右手一本で勝負だ。  互いに睨みあう。ジェイは一歩も動かない。獅子も、一定の距離を保って近寄らない。  と、獅子が何かに反応した。ちらりと意識がジェイから離れる。  勝負は一瞬だった。  ジェイは地を蹴ると一気に距離を詰め、獅子の懐に入る。右手で剣を振りかぶり、獅子の首元を叩き斬った。返す刃でもう一閃。血潮が顔に飛ぶ。獅子は激痛のあまり前足をめちゃくちゃに振り回した。危うく爪の餌食にならぬよう、急いで後ろへ下がる。  大地に響くようなうめき声を上げ、意識の続く限り暴れる。そのうちよろよろと地面に伏し、そして、動かなくなった。  夜の静寂が戻ってくる。  ジェイは肩で息をしながら、しばらく3頭の怪物をながめていた。  と、バタバタと人の走ってくる音がした。だんだん近づいてくる。獅子は、最期にこれに反応したのだろうか。獣の耳の良さが仇になったな、とジェイは薄く笑みを浮かべ、バスターソードを背中の剣帯に戻した。  こちらに走ってきている人物に予想はついている。多分怒られるだろう。確実に。微かに肩をすくめた。  庭に飛び出してきたのは、この闇の中でも燦然と輝く金色。思ったとおりその美麗な顔に憤怒の表情を浮かべている。続いて、白いドレスの少女も庭に転がるように出てきた。これは少々予想外だった。まさか戻ってくるとは。  クリスは庭に転がった骸達を見回し、驚愕に目をみはった。無理もない。これらのような怪物が城壁を越えて都に侵入するなど、今までに例のなかったことだ。 「よ、おつかれー」  負傷していない手を軽くあげて、朗らかに声をかけた。とたん、ぎろッと睨まれる。ツカツカと歩み寄ってきた。 「お前は普段警邏で何を学んでいるんだ?単独暴走禁止とか結束とか助け合いとか協調性とか戦力の見極めとか買い食い禁止とか言われなかったか?お前の警笛は何のために懐に収まってるんだ、ハトでも呼ぶのか?」 「クリスさん、なんか変な禁止まざってません?」 「"キマイラ"との戦い方は入隊直後に指導があるはずだったな。1頭に対して基本は3人が原則だ。何故だかわかるか?なるべく死傷者を出さないためだ。こんなぺーぺーの新人でも知っている事項を入隊5年目のお前が知らないとはおみそれするな。あぁ、1人で3頭も倒せる戦士にそんな常識は必要ないか。頭に回るはずの栄養がすべて筋肉にいってる馬鹿はおめでたくていいな。羨ましいよ」 「ん、褒めてる?」 「そう思えるならお前は一世一代の大馬鹿だ。…というか、何だこの臭い。お前もうちょっと体臭とかに気使った方がいいんじゃないのか」 「それは俺じゃねぇっつーの!あの虫…ッて、」  思わず左手で幼虫の死骸を指そうとして、掌に痛みがささる。何食わぬ顔で後ろに隠そうとしたが、クリスは見逃してくれなかった。即座に手首を掴まれる。顔の前に持っていってしげしげと眺められた。さすがに居心地が悪くて身じろぐ。が、離してくれなかった。 「何だ、これは」 「えーとそこのでかい虫みたいなキモイやつがでろっとした液吐いてきてさ」 「うん」 「避ける暇なかったから手でばしーってやったらじゅわっみたいな…」  口にした瞬間、クリスが信じられないといった顔でこちらを見てきた。 「お前…馬鹿か!?」 「なんだよ馬鹿じゃねぇよ、失礼だな」 「得体のしれない液体を手で受け止めることが大馬鹿だ!馬鹿極まりないぞお前!」 「あーもう!バカバカ言うなっつーの!俺だって傷つくんだからな!」  最近みんな俺のことを馬鹿と言いすぎだろう。そう思ったジェイは憤然と親友の手を振り払った。



 金髪の青年について再び中庭に戻ってきたマリアは、呆然と立ち尽くしていた。  先ほどの怪物達が幻覚などではないことは、はっきりした。しかし、この現状はなんだ。  この世のものとは思えないほど慟猛で恐ろしく感じた獣達は、今や見るも無残な姿になって地面に転がっている。そして、この現場から考えるならば、この3頭を倒したのはジェイただ1人ということになる。マリアはへなへなとその場に崩れ落ちた。  この怪物達が何なのかという疑問の前に、その正体不明の怪物達を人間が倒したという事実が信じられなかった。今さらながら、体に震えがはしる。その細い肩を、自らの両腕で掻き抱いた。  目の前では、2人の青年がぎゃんぎゃんと言い合いながらじゃれている。まるで獣達の相手など日常茶飯事であるように、気にもとめていない様子に見えた。  今までの常識が音をたてて崩れていくようだった。怖い。これは夢じゃないのか。肩を抱く手にさらに力を込める。俯いて、穴があくほど地面を見つめていた。  どのくらいそうしていただろう。ふいに、自分の上に影がさした。おそるおそる、ゆっくりと顔を上げる。  ジェイが、少し困ったような笑みを浮かべて立っていた。 「あー、その、何だ、」 「……?」 「あの死骸はクリス…あ、あの金髪な。あいつが他の警邏に頼んで処理してくれるってよ」 「……う、うん…」 「だから、ここはこれからちょっと片づけとかでゴタゴタするから、どっか移動しないか?」  そう言って、目の前に手を差し出してきた。自分を手助けしてくれようと出されたそれに、躊躇する。大きな手だった。温かみのある、人間の手だった。しかし、その手には先ほどの怪物達の血と死の臭いがこびりついているような気がした。少しだけ、後ずさる。 「どうした?」 「あの、私…もう中に戻らないと、兄様が探してるかもしれないし…」 「うーん、こう言っちゃなんだけど、その顔で戻るのか?」 「え?」 「ひどい顔してるぞ」  からかいを含んだ口調でジェイが言ってくる。呆然と見上げてくるマリアに、口の端をあげて少し意地悪げに笑ってきた。  と、突然マリアの大きな瞳からぼろぼろっと大粒の涙がこぼれる。 「うおっ!?」  自覚のない涙に自分も驚いた、がそれ以上に慌てたのはジェイのようだ。とっさに地面にしゃがみ、焦った表情でマリアの顔を覗き込んでくる。 「なんだ!?俺悪いこと言ったか?冗談だぞ、ひどい顔とか!ちゃんとかわいいから大丈夫だって!」 「ち、ちが…」 「あ、もしかしてどっか痛いのか?怪我したか?どこだ!」 「ううん…っ、」  顔の前で手をふって否定しようとするが、あふれてくる涙は限界をしらなかった。次から次へと頬つたってこぼれていく。  ぐしょぐしょになる顔とは裏腹に、胸のつかえがとれるようにすっきりするのを感じていた。先ほどまで恐怖でせき止められていた黒いものが、涙にのって外へ流れ出て行った。それは、得体のしれないモノに対する純粋な恐怖と、一瞬でもこの青年を怖いと感じたことが誤りであったという安堵感。 「こわかったよぉー…っ」  思わず口をついて出た。  怖かった。怖かった。怖かった。ただその感情をすべて出し切ってしまおうというように、マリアは涙を流し続けた。  不意に、ふわっと暖かいものに包まれる。  どこかで覚えのある感覚だった。ゆっくりと揺らすようにあやしながら、ジェイはマリアを抱いていた。やわらかな髪を梳くように撫でる。 「怖かったかー。そりゃそうだよな、あんな気持ち悪いモン初めて見たよな」 「うん…」 「でももう大丈夫だからなーぐっちゃぐちゃのミンチにしてやったから」 「…さいあく」 「え、なんで」  大真面目に聞き返してくる間抜けな青年の胸の中で、マリアはくすりと笑った。  まだ涙は乾かないけれど、胸の中はほっこりと暖まったような気がしていた。



中庭を見下ろせるアーチの上で、黒い影が腰を上げた。 事の一部始終を見守っていたそれは、何か思案するようにしばらく風にふかれるままその場に立ち尽くしていた。 突然、黒いローブの中から腕を出し、両の親指と人差し指で四角い囲みをつくる。そのまま右目の前に持ってきた。まるで狙いを定める照準のようだ。その中には、少女と連れだって中庭を後にする若輩警邏の姿がすっぽりと納まっている。 「ジェイ・クロウ…」 ポツリ、と呟く。 一際強い風が吹き抜けた瞬間、黒い影はどこへともなく消え去っていた。





←BACKNEXT→