王都の東区は貴族が主に居を構える高級地区だ。そこの一角に、一際大きな屋敷がある。バロック式の建築を思わせる様相で、一国の主が別荘として使用していてもおかしくない程の豪奢な造りだ。月明かりの中に浮かび上がるシルエットは、荘厳の一言に尽きる。
屋敷の主は、自室で息子の到着を待っていた。ゆったりと椅子に腰掛け、腕を組んでいる。ビロード製の外衣は右胸に金の留め具で固定されていた。待ちくたびれた、というように靴の踵を規則的に鳴らす。100を越したところで、鳴らした回数を数えるのはやめた。
眉間の皺が深く刻まれる。あの愚息はどこで油を売っている。メイドを呼びつけようと、机上のベルに手を伸ばした。と、その時。部屋のドアが3回、ノックされる。
「入れ」
バリトン級の深い声で短く命じる。すぐに扉は開いた。息子が一礼してから入室してくる。黒のマントがひらめいた。
「お待たせして申し訳ありません、父上」
「遅いぞ。舞踏会は3時間も前に終わったろう。一体何をしていた」
「少々事後の処理がありまして…滞りなく終わりましたので、ご安心ください」
「ふん」
主は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。椅子から立ち上がると、壁に備え付けられた棚からワインボトルと2つのワイングラスを取り出す。よく寝かせた年代物だ。惜しむでもなく栓を開けると、それぞれのグラスに注いだ。息子に手渡してやる。
「さぁ、乾杯だ」
「城で少々飲みすぎました。遠慮させていただきます」
「そう言うな。お前の婚約祝いだ」
「…なんですって?」
息子の双眸が剣呑にきらめく。明らかに不快な表情をしながらも、とりあえずグラスを手に取った。主は喉の奥で笑いながら、葡萄酒を掲げる。
「まだ縁談を持ちかけた段階だがな。所詮向こう方はとっくに没落した下等貴族だ。尻尾をふって我が家に飛びつくさ」
「また何か企んでますね?」
「人聞きの悪いことを言うな。結婚を世話してやろうと言うんだ。お前は私の言うとおりに動いていればいい」
「わかっています」
息子も、グラスを軽く上げた。
「国と、このダリアの紋章にかけて」
蝋燭の灯りで揺らめく葡萄酒は、さながら血の色を思わせる。親子は一瞬視線を交わした後、一気に中身を飲み干した。
「………はぁ」
溜息をつく。2日前にも確かこのあたりで同じように溜息を洩らしたな、と思いながら憂鬱な気分になった。今日は隣を歩くデイビットの姿はない。マリアは1人で大きな紙袋を抱えて通りを歩いていた。
街の通りにはまだカーニバルの余韻がそこかしこに見られる。風船や紙吹雪の残骸が石畳に散らばり、店の看板装飾もそのままのところが多かった。これから1週間くらいかけてのんびりと片付けるのだろう。王都の人間には、そうした呑気な気風があった。
それにしても呑気すぎるだろう、と2日前に衝撃の事実を知ったマリアは思うのだ。
"キマイラ"
そう、彼は言っていた。先日舞踏会の際に現れた、この世のものとは思えない怪物の総称である。
この王都は周りをぐるりと城壁に囲まれている。それは単に他国からの侵略の防衛だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。城壁には呪術師らによる特殊な術が施されており、キマイラ達はその結界に阻まれて王都の中にまでは入ってこれないというのだ。先日の夜は、なぜかその例外が起こってしまったのだが。
王都の外に広がる森などは、キマイラ達の巣窟らしい。王国軍や王国警邏が定期的に討伐隊を派遣しているが、その数は減るどころかむしろ増え続けているという。
マリアは生まれてこの方王都の外になど出たことがなかった。必要がないからだ。王都に住まうほとんどの人間がそうだと言えるだろう。そして、そうした住人達にはキマイラの存在は混乱を招く要因として知らされていないのだ。
…とまぁ、先日あの騒ぎの後に、ジェイがまるで昼下がりの世間話かのようにのほほんと話してくれた。マリアからしたら、それまでの価値観が変わるほどの重大事件だったというのに。
「…あーぁ」
紙袋をよいしょと持ち直して、再び盛大に溜息を洩らす。
今憂鬱に思っているのは、別の件なのだ。
それは、舞踏会の後、屋敷に帰ってからのことだった。
『マリア、やったよ!縁談だよ!』
そう言われて、初めて舞踏会なんぞに行った主旨を思い出した。
会場で兄と合流した時に何やらそわそわしていると思ったら、屋敷の玄関をくぐったとたんにこう来た。
マリアが目を白黒させていると、兄はがしっと両手を握ってきた。
『兄さん大手柄だ!八貴族の一家だぞ!やった、これで貧乏脱出だ!』
『ちょっと、ちょっと待ってよ兄様!痛いから!』
握ったまま上下にぶんぶん振り回され、マリアは堪らず悲鳴をあげた。が、興奮状態の兄には届かない。
『しかも、先方から声をかけてきてくださったんだよ!もう驚いてしまってさ、何か粗相をしなかったか心配だよ』
兄はそこで一旦言葉をきった。自身を落ち着かせるように、息をつく。手は握ったまま、マリアの目をまっすぐに見つめてきた。
『本当、今まで僕が不甲斐ないせいでお前に迷惑ばっかりかけてごめんよ。でももう安心だから。この縁談がうまくいけば、マリア、お前は公爵夫人だよ。もう金や食糧で困るようなことはないんだ』
『…うん』
『うまくいくといいな。いや、きっとうまくいくさ。御子息も素晴らしい方のようだし』
『うん』
『詳しい話はまた今度ね。それじゃ、僕は疲れたからもう寝るよ。いいかい?』
『うん、おやすみなさい』
兄は嬉しそうに微笑むと、マリアの左頬に軽く唇を寄せて、寝室へと姿を消した。彼の気分が高揚しているのはその背中を見るだけで明らかで。マリアはドレスの袂をきゅっと握った。何やら形容しがたい感情が湧き上がるのを、抑えられない。
『お嬢さん』
『わっ!…デイビット、起きてたの?』
『旦那の声がうるさくて目ぇさめちまいましたよ』
背後からぬっと現れたパジャマ姿のデイビットは、盛大な欠伸を漏らす。彼独特の少々くすんだ金髪は、起きぬけで方々にはねている。
『あのね、デイビット』
『なんですか?』
『縁談だって』
後ろに立つ彼がピタリと動きを止めたのがわかった。くるりと振り向く。何か先に言われる前に、急いで口を開いた。
『うまくいくように頑張るから、応援してね』
そして、マリアは気丈に微笑んで見せた。
鬱々とした気分で街を歩いていると、ふと視界の端を何かがよぎった。慌てて顔を上げる。首をめぐらすと、見覚えのある黒髪が通りの向かい側を歩いて行くのが見えた。荷物を揺すりあげて、追いかける。
「ジェイ!」
声高に叫ぶと、すぐに黒髪は反応した。数度周りを見渡してから、こちらに気づく。彼も買い物帰りだろうか、茶色い紙袋を片手に抱えていた。マリアの顔を見ると、嬉しそうににっこり笑った。本当大きな犬のような笑顔だと思いながら、彼のもとへ歩み寄る。彼の正面に立ってみて、何やら違和感を感じた。
「よ、マリア。今日はドレスじゃないんだな」
「当然で、しょ…」
「ん、どうした?」
「いや、なんか…あれ?」
何かおかしい。首をひねって彼を見る。全身を眺め、すぐに合点がいった。
「あぁ、今日制服じゃないんだ」
「非番なんだよ。あんな窮屈なモン仕事以外で着てられっか」
眉を潜めてそう言う彼は、肌着にズボンという限りなくラフな格好だった。舞踏会であれだけ目立っていた巨大な剣も今は携帯していない。今日の彼はまったくの一般市民の風体だった。
「なんか、制服の時と雰囲気違うね」
「そうか?」
「うん、こっちのが好きかも」
「俺も、ドレスよりそっちのが好き」
「どぉもー」
おどけてワンピースの裾を掴んでみる。ついでに小さくお辞儀までしてみせると、彼はゲラゲラ笑った。
自然と、2人で並んで歩きだす。程よい感じで雑踏にまぎれる。ジェイが、紙袋を顎で指した。
「夕飯?」
「ううん、明日以降の買い物。そっちは?」
「雑貨。…ブランコが、壊れてな」
「は?」
「俺、実は8人の子持ちなんだ」
「嘘!?」
「うっそー」
一瞬にしてこれでもかという程に顔を顰める。顰められた当の本人はちっとも気にせずにわはは、と笑ってマリアの髪をくしゃくしゃと掻きまわした。両手で袋を抱えているので、乱れた髪を直せない。すると、ジェイが空いている手でマリアの紙袋をひょいと引き受けた。
「時間ある?」
「え、まぁ…ないことはない、というか」
「うち、来てみるか?」
中央の商店街を抜け、彼についてきた先は、庶民階級の暮らす南区だった。その中でもとりわけ貧しい所謂「貧民街(スラム)」と呼ばれる区画のほんの少し手前、といった場所だった。周りの小さな家に比べるとそこそこ大きい2階建の木造の建物を前にして、彼は足を止める。入口の上に掲げられた看板には、泡立つビールがつがれたジョッキが大きく描かれていた。
「………酒場?」
「まぁな。家の入り口は裏だ」
怪訝そうな表情のマリアを促して、壁沿いに建物をぐるりと回る。姿が見えないが、きゃいきゃいと騒ぐ子供達の声が聞こえてきた。歩を進めるにつれ声は近づく。建物の影からひょいと顔を出す。酒場の裏は小さな空き地になっていた。子供達がじゃれあって遊んでいる。数人がかりでウンウン唸りながら持ち上げようとしているのは、鞘に収まったままの巨大な剣だった。マリアが小さく声を上げるのと同時に、頭上から大声で檄が飛ぶ。
「こらぁっ!何やってんだオメーら!」
「うわっ」
「わ、兄ちゃんだ!」
「見つかった!」
「兄ちゃーん、おかえりぃー」
「お土産は?」
「早くブランコなおしてよぉ、遊べないよー」
一瞬のうちに子供達に足元を固められてしまった。ジェイは、群がる子供達にうろたえるマリアの手をひき、まとわりつく小さな体を慣れた様子で少々乱暴に除けながら進む。子供達の中でも比較的年長の者に自分の買い物の袋を預けた。片手にはマリアの分の袋を抱え、そのまま空いた手で地面に放置された自分の愛剣に手をかける。腕一本で軽々と持ち上げると、子供達から歓声があがった。
「すげぇー!兄ちゃん、かっけぇ!」
「馬鹿力!」
「うっせ。『馬鹿』が余計だっつーの!力持ちと言え」
「ね、兄ちゃん。この姉ちゃんだれ?」
「ん?兄ちゃんの友達だ」
「兄ちゃんの友達?」
「じゃぁおれたちの友達だな!」
「え?」
疑問も反論も口に出す暇もなく、両手を子供達にガッチリと掴まれた。そのまま裏口へひっぱっていかれる。右手を男の子、左手を女の子に引かれながら、マリアは困ったようにジェイを振り仰いだ。
「ちょっと!」
「ま、入ってゆっくりしていけよ。まだ営業前だしな」
「え、ええぇー?」
断る理由もさしてあるわけではない。マリアはそのままずるずると屋内に引っ張られていった。すぐ後ろから子供達を腕や足にブラ下げたままのジェイが続く。
「アン!アーン!帰ったぞー」
中に入るとすぐ目の前に、2階へ続く階段がある。階段を素通りして奥を覗くと、小さな部屋になっていた。部屋の隅にドアがあるが、きっとそこから酒場へとつながっているのだろう。ジェイが何回か名前を呼ぶと、そのドアを開けて女性が酒場側からこちらへと入ってきた。
「はいはい、そんなに大声出さなくても聞こえてるわよ。おかえりなさい」
「おう。買ってきたぞ、諸々」
「ありがとー。今日はもう完全に非番なんでしょ?お店の方手伝ってもらうわよ」
「冗談。休みは休めって昔のエライ人も言ってたろ」
「はいはい昔は昔、今は今!子供の前でいい加減なこと言わないでくれる?…あら、そちらは?」
子供達にガッチリと両脇を固められているマリアに気づき、女性―――アンは小首を傾げた。さらりとした淡い茶髪が首筋にこぼれる。美人だ。意味もなくどぎまぎしながら、マリアは会釈をした。
「あ、お邪魔します、私…」
「俺の友達。マリアってんだ」
「あらージェイのお友達?大変でしょ、これと付き合うの」
「コレってなんだよ」
バスターソードを壁にかけながらジェイが抗議するが、アンはさらりと無視してマリアに微笑みかけた。
「アンよ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
「汚いところだけどゆっくりしていってね」
「あ、いえお構いなく」
細い指でマリアの手をとり、アンはふわりと花のように微笑んだ。その柔らかい印象とは裏腹に、きびきびとした声音をジェイに投げかける。
「ジェイ!荷物運んで」
「へいへい」
腕にぶら下がる子供を振り落とし、ジェイは預けた荷物を受け取った。マリアの袋は机の上に置く。奥の酒場へ消えるジェイの背中を、アンも追った。
その場に残されたマリアは、一気に子供達の好奇の的になった。周りを囲まれて逃げ場を失う。
「あそぼー!」
「なにする?」
「俺ニック」
「あたしリリス!」
「ぼく…「お前ら名前なんかあとにしろよ」
「早くブランコ直してもらおうぜ」
「な、マリア姉ちゃんって兄ちゃんのコレ?」
「えぇー、フレッドのえっちー」
生意気そうな少年が小指をたてると、子供達はきゃらきゃらと笑って大騒ぎだ。マリアを囲んだまま子供達は移動を始める。マリアも否応なしに彼らが進む方へと足を運んだ。先ほど遊んでいた裏庭に出る。
こんなに大勢の子供に接するのは初めてだ。うろたえてうまく言葉が出てこない。質問に答えあぐねてあーとかうーとか唸っていても、子供達はおかまいなしに競うように喋りつづけている。
「アンさんは、みんなを育ててくれてるの?」
追及の波が途切れた隙に、今度はマリアから問いを投げかけた。このまま流されていては身がもたない。子供達はまどうことなくニッコリと笑った。
「そーだ!アン姉ちゃんが俺達の母ちゃんなんだ」
「でも母ちゃんっていうと怒るんだぜ」
「『まだ結婚もしてないんだからヤメテー』とかいうの」
「ジェイ兄がいるのにな」
「えーでもアン姉とジェイ兄はムリだよ」
「なんで?」
「だってアン姉ちゃんは好きな人がいるって言ってたもん」
「まじかよー?」
「なんだよ、ジェイの奴だらしねぇな!」
子供達の口からぽんぽん飛び出す人様の家庭事情に、マリアは乾いた笑いをこぼした。
金髪を高い位置でキュッと結んだ女の子が、いきなりマリアの手を強くつかんだ。
「おねえちゃん!」
「うぇっ?な、なに?」
「お姉ちゃんがジェイ兄ちゃんに彼女になってあげてよ」
「えぇ!?」
あぁ、子供ってどうしてこういう突飛なことを言うんだ。心の中で頭を抱えるマリアを無視し、子供達はわっと盛り上がる。
「そーだよ、それいいじゃん!」
「兄ちゃんバカだから彼女できないんだよ」
「最近ずーっと彼女いないんだ」
「バカだから」
「かわいそうだもんね」
「バカだけど俺達の兄ちゃんだからな!」
「バカだけどね」
「なんの話してんだこのガキどもぉッ!」
突如怒鳴り声が庭に響き、子供達は悲鳴をあげて方々に散った。入口から飛び出してきた男は大人げなく彼らを追いまわす。とりあえず手近な少年を捕まえて頭を締めあげた。
ようやく解放されたマリアは、胸をなでおろした。子供は確かにかわいい。かわいいけれど慣れていないと相当に疲れるのだ。ジェイに次々と捕まっていく子供達は、今度は一丸となって反撃に出る。一気に兄貴分にとびかかり、地面に引き倒すことに成功していた。その様子を眺めながら、くすりと笑みをこぼす。
(ジェイのこと、好きなんだなぁ)
彼らの憎まれ口は、溢れる愛情の裏返しだ。出会って日は浅いが、マリアもこの青年には好感を持っていた。ふと、彼と付き合うことになったらどうなるだろうかという考えが頭をよぎる。見合い結婚なんてせずに、彼と普通の女の子のように恋愛ができたら…。
「マリア!」
「…えっ?な、なに?」
変に上ずった声がでる。まさかアナタのことを考えていました、などと言えるわけもない。子供を腹の上に乗せ、仰向けの状態でこちらに首を向けながらジェイは言う。
「そろそろ夕刻だけど、メシどうする?」
「え、どうするって言われても…」
「うちで食ってけば?今から帰っても家のメシ間に合わないだろ」
「でも…」
「何か用事でもあるのか?」
「ううん、そうじゃなくて、家に何も言ってきてないから…帰らないと心配すると思うの」
過保護すぎる兄がいるから、と胸中でつけくわえる。
以前、ダンスの教室で知り合った商家の友人に誘われて兄に黙って夜会へ遊びに行ったことがあった。貧しい家に生まれたマリアはそれまで夜会など参加したこともなく、時間を忘れてしまうほどに楽しんだのだ。が、いざ深夜の家路につくと屋敷の周囲の地区は、誘拐だ何だと錯乱した兄が騒ぎ立てたおかげで警邏の捜索隊まで出動する大騒ぎになっていた。
当時を思い出すと少々気分が沈む。マリアが帰ってくると兄は気が抜けてとたんに意識を失い、その後の処理はすべてマリアとデイビットがやったのだ。すみませんでしたうちの兄が騒ぎ立てして、と頭を下げて回ったことは忘れない。
ジェイは腹の上から子供をどかすと、横着にも草の上をごろんと転がってマリアの横まできた。寝転がったまま見上げてくる。
「なんだ、うちで食いたくねーってわけじゃないんだな?」
「は?あ、当たり前でしょ!そんな失礼なこと思わないわよ」
「そうか。じゃ、話は早いな。連絡すりゃいいんだろ」
それができないから困っているのだが。マリアが頷きつつ訝しげな顔をすると、ジェイはにこりと笑ってズボンのポケットから小さな笛を出した。銀色に光るそれを口にあて、ピーッと鳴らす。
遠くで犬の吠える声がした。「ジャッカル!」とジェイが呼ぶと、応えるように鳴く声はつい先ほどより近づいている。すぐに、角を曲がって裏庭に飛び込んできた。大きな黒犬だ。まるで笑っているように口を開き、舌を出して息をとっている。犬の登場に色めきたつ子供達には目もくれず、地面に寝転がっているジェイの腹へ飛び乗った。
「ぐっ、ちょ、お前重…っ!ぶはは、舐めんなコラ!」
まるで親友のように地面に転がり、じゃれあう。顔中を大きな舌でべろべろと舐められ、ジェイは悲鳴をあげていた。
しばらくして洗礼が終わると、ジャッカルは尻尾を振りながらマリアの方へも近寄ってきた。頭を撫でてやると、嬉しそうに一層大きく尾を振る。
「そいつ、訓練されてっから頭いいんだよ。手紙書いたら家まで届けてくれるぞ」
「え!?そうなの?すごーい!」
「おう、褒められてんぞ、ジャッカル」
ジェイが頭を掻きまわすと、嬉しそうに一声吠える。手紙を託されるのを待つかのように、その場に座りこんだ。鼻を近づけ、ふんふんとマリアの匂いを嗅ぎまわる。
子供達が素早く持ってきた筆記用具を受け取り、マリアは勧められるままに兄宛に手紙をしたためた。すぐ横から覗き込んでくるジェイの気配に、気分が高揚していた。
そのせいか。
マリアは、重要なことをすっかり忘れてしまっていたのだった。
「アンちゃん!こっちにシチューくれよ」
「こっち、エールがたんねぇよアンちゃーん!」
「はいはい、順番に行くから待ってて!ちょっと、そここぼさないでよー。…ジェイ!飲んでないでこっち手伝って!」
日も落ち、夕闇が訪れると、小さな酒場は一気に客であふれかえった。一日の労働を終えた男達が、一時の休息を求めてやってくる。子供達もアンを手伝い、店をきりもりしていた。酔っ払い達の笑い声や怒号が飛び交う中、マリアはカウンターの隣のテーブルでラザニアを口に運んでいた。
ジェイが客のもとへ料理を運んでいるのが見える。そこで、いきなりジョッキを手渡されていた。中年の男が若干呂律の回らない状態で「ジェイ、おめぇこれイッキしてけよ」と囃す。ジェイは事もなげに、ジョッキになみなみと注がれたエールをひと息に飲み干した。
(うわぁ…)
マリアはもともとアルコールはほとんど嗜まない。たまに飲んでもシャンパンや軽いワイン程度で、エールなど飲んだこともなかった。先ほどジェイから一口もらったが、苦くて飲めたものではない。自分には向かない飲み物だ、と認識した。
ラザニアを頬張る。アンの作ったそれは、デイビットの料理と並ぶくらい、とてもおいしかった。おいしい料理に、賑やかな空間。自然と気持ちは弾んでくる。
「マーリアっ」
「ジェイ」
唐突に声をかけられて顔を上げると、ジェイがほかほかと湯気のたつラザニアを持って立っていた。マリアの正面に腰をおろし、自分も大口に料理をほおばりはじめる。
「どう?アンの料理うめぇだろ」
「うん、すごくおいしい!うちの家の人も料理が上手なんだけど、アンのも同じくらいおいしいわ」
「へぇ」
「…何?」
「お前さ、貴族なのに『使用人』とか『うちのシェフ』とか言わないんだな」
「どういうこと?」
「えらぶってないってことだよ」
むぐむぐと口を動かし、食べ物を咀嚼しながら何気なくジェイは言う。
「俺は、それ好きだな」
「…っあ、ありがと」
思わず頬が紅潮する。マリアは手許に置いてあった水を飲み干した。店の熱気のせいだと、誤魔化せているだろうか。何だか顔が直視できずに視線を泳がせた末、マリアは妙にうわずった声で店の奥を指した。
「ね、ジェイ。あれ何?」
「ん?」
「あのステージ」
ステージというのはお粗末かもしれない。店内で1段あがっただけのそのスペースには、古びたハープシコードが鎮座していた。隣に置かれた丸い椅子の上には、リュートがちょこんと置いてある。
ステージにちらりと視線を走らせ、ジェイはあぁ、と頷いた。
「うちのガキ達が演奏すんだよ。健全な小遣い稼ぎみたいなもんだな」
「え?あの子達、楽器できるの?」
「お、なんだなんだ、何も音楽はお貴族様だけのモンじゃないんだぜー?」
「う、ごめん…そんなつもりは…」
「あー、いや、俺も言い方が意地悪だったな」
マリアが思わず委縮すると、ジェイも慌てて首をふった。ばつが悪そうに店内を見回し、あるところに目を止めると大声で叫ぶ。
「ニック!フレッド!リリス!お前らそろそろやったらどうだ?」
「もういいのー?」
「お料理はこばなくて、いいのー?」
「いいよ。俺が運んでやっから」
「やった!おい、やろうぜ!」
「何やるの?」
「あたし『ジャンプシーの湖畔にて』がいいな」
「じゃーそれ!」
ジェイに何らかの許可をもらった3人の子供達が、わいわいと話ながらステージに上る。一番背の高いフレッドがハープシコードのイスに座り、リリスがリュートを手に取って腰かけた。小さなニックはステージの真ん中に立つ。
客の中から口笛や歓声がとんだ。子供達は笑顔のまま、おもむろに演奏を始める。古くから民間に伝わる、童謡だった。弾むような軽いテンポが店内をつつむ。変声前のニックは、まるで少女のような声で歌った。喉を震わせて聴衆達を包みこむ。まだまだ拙い演奏だが、聞かせるには十分なものだ。
笑顔で奏でる子供達を見守りながら、男達は拍子をとったり踊りだしたりしながら賑やかに堪能していた。マリアも耳慣れた曲に体を揺らし、気づいたら一緒に小さく詩を口ずさんでいた。
短い童謡はすぐに終わり、拍手喝采の中子供達はステージ上で一礼した。ぴょこんと飛び降りると、一目散にマリアのもとへ走ってくる。一番先にたどり着いたニックが腕の中に飛び込んでくる。
「ねーちゃん!どうだった、おれたち?」
「すごくうまかったよー!びっくりしちゃった!」
「だろー?」
「アン姉とジェイ兄が教えてくれたんだよ」
「えぇ!?」
予想もしていなかった事実に思わず声をあげてしまう。すぐ隣で会話を聞いていたらしい男が、がはは、と笑った。
「嬢ちゃん、びっくりするのも無理ねぇなぁ。あいつはパッと見ただの筋肉バカのデカい猿だから」
「いや、そこまでは思ってはないですけど…」
「ガキに演奏を任せるのは、この酒場の伝統なのさ。あのジェイにもこーんなちっこい頃があってだなぁ、その頃はまだ細っこくてかわいかったのなんのって。クソ生意気だったのは変わらんがな」
「へぇ」
「4人組でよくつるんでたもんさ。あとの2人はこの酒場を出ていっちまったんだけどな。アンの歌とジェイのリュート。あとデイブのハープシコードが入って、クリスの奴は何もできないもんだからふてくされて座ってたな」
バカだの猿だのは、まぁ、ちょっとしか思っていないが、知りあって日の浅いマリアでも彼がそういう室内事にむいていなさそうだということはわかる。だからこそ、そんな話を聞いてしまうとぜひ見てみたいという気持ちに駆られるのは当然だった。
「ちょっと、聞いてみたかったなー、それ」
「おう、任せとけ嬢ちゃん。おい、ジェイ!サル!」
あんまりな呼び方だが、男の呼びかけに即座に応じたジェイが大股でこちらまで歩いてきた。わっと纏わりつく3人の子供達を適当にいなしながら、男ににじり寄る。
「ずいぶんな呼びつけ方じゃねぇかオッサン、あぁ?」
「お前、久方ぶりにアレ弾いてみる気ぃねぇのかい」
「は?ねーよ。何だイキナリ」
「いやー、この嬢ちゃんに話したらよ、ぜひ聞きたいって言うからなぁ」
「…マリアが?」
驚いたような顔でマリアを見る。少々きまり悪く、マリアは笑ってみせた。
「だって、話聞いたらあんまり想像つかないんだもの」
「昔の話さ」
「よー、ジェイよー」
男はジェイの首元をつかんで自分の方に引き寄せた。首の後ろに腕をまわし、声を潜めてにやりと笑う。体の陰に隠してこっそりと、小指をたててみせた。
「この嬢ちゃん、お前のコレだろ?」
「ばっ、ちげーっつの!」
「照れんな照れんな。男ならイイトコ見せてなんぼだろ?ちっとくれぇ弾いてみてもいいじゃねぇか」
「…アンは歌わねぇぞ」
「そこをなんとかすんのがお前の仕事だろ!おら、行った行った!」
まだ釈然としないジェイの背中を靴底で蹴飛ばして追い払う。不思議そうな顔で見ていたマリアに向けて、男はしてやったりと片目をつぶった。
自然と視線はジェイを追う。彼はカウンターの奥にいるアンに何事か話しかけていた。アンが驚く。笑う。笑いながらジェイの頭を叩く。猛然と抗議するジェイの、今度は横面をはたいた。話している内容は聞こえないがその様子がまるで漫才のようで、小さく噴き出してしまった。
そうして2人はステージへとむかった。アンは腰のエプロンで手についた水を拭き取りながら、ジェイは、後頭部を掻きながら壇上に上がる。およそこれから曲を奏でるに相応しくない風体の2人に、客からは喝采が飛んだ。
「アンちゃん、歌うのかい!?」
「今日だけよ。特別なお客さんがいるから、今日だけ」
「ジェイー色男―」
「助平―」
「色情魔―」
「うるせぇ!」
適当な野次を飛ばす客たちに檄を飛ばしながら、ジェイはリュートを手に座った。少々の音合わせだけして、何の前置きもなく弦を弾き出す。剣を握る無骨な指が、繊細な音色を奏で出した。
サンタ・マリア
前奏を聞いただけで誰もが合点のいく有名な曲だった。小さく息を吸って、アンが朗々と歌い出す。
掟によって神に純潔を捧げた、とある宗教上の聖女が、故郷の恋人に想いを馳せる。そんな物悲しい歌詞が明るい曲調にのせられて、透きとおるような声によって染みわたるように響いている。
軽やかなリュートの3拍子に揺られて、観客たちは先ほどのように騒ぐでもなく、穏やかな表情で静かに耳を傾けていた。
たとえこの身が神の御前に朽ちようと
心だけで貴方のもとへ飛んでゆく
約束などいらない
魂の帰る場所は知っているから
サンタ・マリア サンタ・マリア
アンの歌声はまさに全てを包む聖母のようで。
自分でも気づかぬうちに、マリアの頬を幾筋もの涙が滑り落ちていった。
もう完全に日も落ちた。
薄暗くなった王城の廊下を、クリスは足早に歩いていた。たった今、任務の結果を王に報告してきたばかりだ。今日は王都の外へ出向く仕事だったため、時間が長引いてしまったのだ。
左頬がひり、と傷む。赤く細い線がはしっていた。任務中に出くわした小型のキマイラにつけられたかすり傷だ。
傷が問題なのではない。こんなものは、護衛中だった商人に気を取られた自分のミスだ。それよりも。
(王都の周辺にキマイラが多すぎる)
王都は城壁に沿って結界が貼られている。キマイラの王都侵入、一般市民への露見を防ぐためのもので、結界を嫌うキマイラ達は必然的に王都周辺を避けるように生息しているはずだった。今までは。
最近頓に王都近辺でのキマイラ出現が多い。クリスは、胸を微かにかすめる違和感を振り払えないままでいた。
ふと、顔を上げる。暗がりの中正面から近づいてくるのは、いつぞやの黒いローブコートだった。
近づき、すれ違う。数日前のデジャヴ。あの時とは逆方向の邂逅。脳裏にちらつくのは、禍々しいほどの赤。
気がつくと、クリスは反射的に剣を抜いて背後からローブの首筋に切っ先を向けていた。
「待て」
静かに、短く言う。ローブの足が止まった。
「この奥には陛下のお住まいになる階へ続く通路しか存在しない。こんな夜更けに何の用事だ?」
「………」
「陛下の御住まいに自由に立ち入ることの出来る人物はごくわずかだ。僕は、その全てを記憶している。しかし、お前の姿には覚えがない」
「…………」
「おい、やましいところがないなら何とか言ったらどうだ?」
切っ先を下ろし、ローブの肩に手をかけた。こちらに向かせるように引くと同時に、フードを一気に引きずり降ろす。わずかな月明りの中に浮かんだ顔に、クリスは。
相手の動きが止まった一瞬の隙をついて、ローブの男は素早く身を翻す。音もなく廊下を駈け出した。慌ててクリスも後を追う。しかし、いつの間にか、男の姿は忽然と消えていた。
「あ…」
見回しても、誰の気配もない。廊下は一直線に伸びており、身を隠す場所もないはずだった。
それよりも。
クリスは、自分の見たものが信じられなくて頭を振る。顔から血の気が引くのがわかった。
はっきりと見た。月の光で淡く浮かんだあの顔は、誰よりも見知った顔だった。
「……ジェイ?」
呆然と呟いた呼びかけに、応える者は、誰もいなかった。
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