まるで飛ぶように一週間が経ち、先方が指定してきた見合いの日がやってきた。1人娘の初めての見合い。朝から静々と支度が整えられているのかと思いきや、屋敷から響くのは悲鳴のようなマリアの絶叫だった。 「ちょっと聞いてないわよ兄様――っ!!」  ドレスの裾を乱暴に掴み、そう叫びながら階段を足音荒く駆け降りる。階下に降り立った瞬間に勢いに負けて思わずつんのめるが、背後から延びた太い腕が腰から回され、しっかりと支えてくれた。 「大丈夫ですか、お嬢さん」 「ありがとデイビット。それにしても、今日もまた、一段とキツイんですけど」 「ギッチリ締めましたからね。腰くびれててセクシーですよ」 「やりすぎもどうかと思うけど…って、そんな場合じゃなくて!」  デイビットの腕から抜けだし、既に準備を済ませてマリアを待っているだろう兄のもとへ走る。兄は、居間をうろうろと徘徊しながらしきりに首元のスカーフを気にしていた。 「兄様っ!」 「あぁマリア!とても綺麗だよ。ところで僕のスカーフ水色の方がいいかな?変じゃないかい?」 「水色でも紺色でもドドメ色でもたいして変わりゃしないわよっ!それより何、あのおっきい馬車!?」 「あー表に停まってるやつかい?すごいだろ、先方が用意してくださったんだよ」 「あ、そう。じゃぁどうして『王城へ行く準備は整いましたか?お急ぎください』って言われるの?何で王城!?あたし誰とお見合いするわけ?フォーゲル家の1人息子でしょ?なんでお城なの!?あんな場違いなところでお見合いとか拷問よ拷問!恥さらしもいいとこだわ!」 「あれ、言ってなかったっけ。フォーゲル家は陛下と大層懇意になさっているらしくてね。なんと!陛下が特別に王城の一室を見合いのためにお貸しくださるそうだ!すごいだろう、マリア?」 「……頭痛くなってきた」  たかが貧乏貴族の1人娘のお見合いにしては話が大きくなりすぎている。  天井を仰ぐようにしてふらついたマリアを、後ろから追いついてきたデイビットは胸で受け止めた。琥珀色の髪に丁寧にバレッタをつけてやりながら、けらけらと笑う。 「いいじゃないですかお嬢さん、それだけ相手がカネ的にはいいってことですよ。せっかくの機会だからがっつり利用してやんなさいって」 「別に、利用しようなんて気はない、よっ」  デイビットの手がすくいあげたところからこぼれた髪が耳をくすぐり、マリアは身をよじりながら答えた。 ふと、居間のイスに無造作にかけられたジャケットが目に入る。所々擦れたそれは、古びてはいるがデイビットの一丁羅だ。 「あれ、デイビットもどこか行くの?もしかして一緒に?」 「まっさかー!やめてくださいよお嬢さん、ただの市民が王城にのこのこ立ち入るなんて。今日は旦那もお嬢さんも夜までいないでしょ?だから暇をいただいたんです」 「そうなの?よかった、うち人がいないせいでいつもお休みあげられないから。いっぱい遊んできてね!」 「はは、昔なじみに会いにいくだけですけどね」  よしできた、と満足げに頷き、マリアをその場でくるりと回転させる。貧乏貴族の匂いは欠片も残っていない、どこからみても完璧に上流階級の令嬢だった。  傍に控えていたメイドから扇を受け取り、マリアはそれをパン、と掌で打ち鳴らす。まるで戦闘態勢だ。 「準備完了ッ!いくわよ、兄様!」



 馬車の中は予想以上に快適だった。馬の歩と石畳の窪みで多少の揺れはあるものの、緩やかに流れる外の景色や耳に心地よい馬の蹄の音が、マリアは気にいった。席に敷かれた黒いビロードやシルクのクッションは、汚さないようにと気を使うただの厄介モノではあったが。  実を言うとマリアは馬車に乗ったことは片手で数えるほどしか経験がない。自宅で馬を育てるなど食費や手間がかかって冗談ではないし、派遣を依頼するにもそれなりに金がかかるからだ。ベラクア家の人間とその使用人は基本的に己の足で歩くことを常としていた。  上機嫌で窓から外を眺めていたマリアは、広場にたむろしている若い警邏の集団を目にとめた。自然とその中にいるはずの彼を目が求める。が、集団の中にあの大型犬は見当たらなかった。 (他のところにいるのかな?)  予想以上に落胆している自分に、内心どきりとする。  慌てて車内に視線を戻した。と、隣で蒼白な顔をしている兄に気づく。げんなりとした表情で壁におたれかかっていた。 「ちょっと、どうしたの兄様。真っ青よ?」 「……………酔った」  あまりにお約束な兄の反応に溜息を洩らす。ゆっくりと背を摩ってやるくらいの優しさは持ち合わせていた。 「慣れないモノ乗るからよ」 「うん…そうだね。でもそれだけじゃないよ、お兄ちゃんは常にストレスを抱えているんだよ」 「何よ」 「だってこれから大事な大事なマリアの見合いなのに粗相をしたらどうしようとかお気に召してもらえなかったらどうしようとかそういう時こそマリアを頼りにしてはいるけれどお前は一週間前見合いのことなどとんと忘れて夜道を男と連れだって帰ってくるようなことを平気でするしお兄ちゃんは心配で心配で心配でもう胃が、あああ」  蒼白な顔色のまま口は最小限しか動かさずぼそぼそと、しかし尋常でないスピードで兄はまくしたてる。一週間前にこってり絞られた件を蒸し返され、マリアは髪先をくるくると弄びながら唇を尖らせた。 「だから、あれは悪かったって言ったじゃない!ちょっと…すっかりお見合いのことが頭から飛んでただけよ」 「年頃の大事な見合いを控えた娘がまさか悪い男にひっかかるなんてお兄ちゃんは夢にも思っていなかった」 「ちょっと!ジェイは夜道が暗いからって近くまで送ってくれただけじゃない。悪い男とか言わないでくれる?」 「もしこのことがフォーゲル様の耳に入っていたらどうしよう。見合いを控えているのに男遊びをするふしだらな娘だってレッテルを貼られでもしたらお兄ちゃんはもう死んでわびるしかっ」 「兄様、怒るよ」  鋭く言いながらもう手は出ていた。マリアの小さな拳で側頭部を打たれた兄は、うっと呻いて口を押さえる。そういえば馬車にも酔っているんだった、と思いだし、マリアは再び兄の背を摩った。  しばらくお互いに無言でそうしていると、兄は思い出したように上着のポケットに手を入れる。 「…マリア。手を出してごらん」 「何?」  何かを握った兄の手が、マリアの白い手袋に重なる。拳がそっと開かれると、掌に何かが落ちてきた感触がした。兄の手がゆっくり離れる。白い手の上で輝きを放つのは、小さなロケットペンダントだった。金色に輝くロケットの蓋には、可憐に咲き誇る花が彫られている。ベラクア家の紋花だ。 「これ、母様のペンダントじゃない」 「うん。いつかマリアに渡すように、母上に頼まれていたんだよ。このドレスにぴったり合うだろう?」 「…でも、こういうのって普通結婚直前とかに渡すんじゃないの?」 「もう直前も同然じゃないか」 「まだわかんないでしょ」  彫刻の花をゆっくりと指でなぞる。この小さなペンダントが母の胸元で揺れていた光景をありありと思い出すことができた。目頭につんと熱いものがこみあげるのを、鼻を小さくすすることで誤魔化す。 「でも、嬉しい。母様が傍にいてくれるみたいで。ありがとう、兄様」 「うん。…ほら、つけてあげるから貸しなさい」  兄にペンダントを渡し、少し体をずらして背を向ける。兄が手を回してチェーンを巡らせる。胸元にひんやりとした金属が触れた。ふと、思い出して兄に尋ねる。 「ね、うちの紋花のこれ…名前なんだっけ」 「なんだ、覚えていないのかい?」 「だって普段使うことなんてないもの。子供の頃に聞いたけど、何か長くて忘れちゃった」  カチリ、と首の後ろでチェーンが止まる音がした。兄の方に向き直る。兄の指が、ロケットを優しく撫でた。 「『ディモルホセカ』だよ」 「ディモルホセカ…?」 「暖かい地域で育つ花でね、橙や黄色に咲く、綺麗な花だ」 「へぇ」 「僕は、たまに見るピンク色のが好きかな」 「兄様詳しいね」 「そりゃぁ、当主ですから」  珍しく誇らしげに言う兄がおかしくて、2人は顔を合わせたままくすくすと笑う。  兄がマリアの琥珀色の髪を優しく梳いた時、到着の声がかかり、馬車が止まった。



 自分でも挙動不審なのは承知していた。  ある店の前に行っては立ち止まり、商品をじっと見て、首を捻り頭を抱え、苦悶の声を漏らした末に立ち去る。数歩行った先でくるりと振り返り、再び店の前に戻ってきて悩む。そんなことをさっきから5回以上繰り返していた。  顔馴染みの店員が呆れたような笑みを向けてくる。商品である花を両手にいっぱい抱えたまま、肩をすくめた。 「もういい加減買っておしまいよ、デイビット。お前どんだけうちの前でうろうろする気だい?」 「いや、だってなぁ…」  珍しく歯切れの悪い彼に、店員はふふん、と含み笑いをした。 「その様子はお嬢さんへのプレゼントじゃないねぇ。いい人でも見つかったかい?」 「そんなんじゃないさ。ただ、久しぶりに昔の友達に会うから…」 「だったらもうさっさと買いな!うだうだ悩むんじゃないよ!」 「あああ待った待ったおばちゃん!あとちょっとだけ悩ませてくれ!」 「うるさいねぇ、問答無用!予算はいくらだい?どうせ花のことなんかわかんないだろうから適当に見繕ってやるよ」 「あんまデカくしないでくれよ。なんかこう、さりげない感じで」 「ハイハイ、大変ですねぇ色男」  もう聞く耳はもたない、と適当にいなされる。ブーケができるまでの待ち時間が何だか照れくさくて、デイビットはジャケットのポケットに両手を突っ込んで地面に視線を落とした。  今日行くのは、自分がベラクア家に引き取られる前に暮らしていた場所だ。親をなくした子供達を引き取って育てている所で、デイビットも例外ではなかった。  友達、と言ったが、あの場所で共に育った人達はデイビットにとってそれ以上、家族だ。その中の1人に密かに想いを寄せていることは、ある人物以外は誰も知らない。  11年前にベラクア家に移ってから、彼らと会えるのは良くて年に1回、運の悪い時は数年音沙汰なし、ということもあった。今回は約1年半ぶりの再会である。ますます心も弾むというわけだ。  できあがったブーケを引き取り、ひやかしの声を背中に受けながらデイビットは花屋を後にした。  メインストリートにある露店街を抜けて、都の南に向かう。俗に「スラム」と呼ばれる南区を目指していた。歩みを進めるにつれて、懐かしいスラムの匂いが鼻をつく。まだ陽は高いが、彼女は店にいるだろうか。子供達は元気だろうか。親友はまだ仕事のはずだ。様々な想いを抱えながら、自然と足早になる。そして。  通りの遥か向こうに緩やかに揺れる茶髪を見つけた。陽光を受けて、キラキラと光っているように見える。  去年より随分と髪が伸びた。彼女はまた一段と綺麗になったのだろうか。  思わずデイビットは地を蹴って走り出す。愛しいあの名を呼ぶために、大きく息を吸い込んだ―――




 少し走って、足を止める。周りをぐるりと見た。遥か彼方まで続く、代わり映えのしない廊下。天井を見上げる。眩暈がして足元がふらいついた。巨大な十字架を抱いた聖母の彫刻が、無機質な笑みを湛えてマリアを見下ろしてくる。正方形の装飾に囲まれたそのモチーフはまるで連続絵のように天井を一直線に駆けていた。なぜ、天井にこんな過剰装飾が必要なのか。王城の内装はマリアの理解の範疇を越えていた。  もう1度、周囲を見る。前を見ても後ろを見ても同じような廊下。これは、もう、確実に。 「迷った…」  呆然と呟く。今自分が立っている場所を全く把握できない。数分前の自らの判断を泣きたくなるほど後悔した。  国王陛下が城の一室をお貸しくださると言っても、それは懇意にしているフォーゲル家のためを思えばこそ。その見合い相手の貧乏貴族など、城に招き入れたからといってわざわざ接待に人員を割く必要もないのだ。  城に通されたマリア達は、フォーゲル家の執事を名乗る人物に西塔の2階にあるとある部屋へと案内された。王城の中では比較的小さな部屋だが、それでもベラクアの屋敷の客間の倍はある。2人が圧倒されて言葉もなく立ち尽くしていると、執事はこう告げた。 『若旦那様は現在国王陛下より賜った任務を遂行中であります。こちらに見えるのは早くとも昼さがり、遅ければ夕暮れになるでしょう。どうぞ、それまでごゆるりとおくつろぎください。西塔の3階以下は自由に見て回って構わない、との言伝を承っております』  執事はそれだけ言い残すと、一礼してさっさと部屋を去っていった。貧乏貴族には出す茶も惜しいのか。マリアの頭を占めたのはそのような考えではなかった。 『自由に』  その言葉がぐるぐると頭をめぐり、次の瞬間には兄に「探検してくる!」と高らかに宣言して部屋を飛び出してきたのである。  その結果が、これだ。 (こんなことだったら、部屋から出るんじゃなかった)  ここが2階、ということだけはわかる。目の前に芝生の広がる1階から階段をあがってきたばかりだからだ。  この階のどこかに、先ほど通されて兄が今現在1人で待ちほうけている部屋があるはずなのだが。ここまで同じような壁、天井、扉を並べられると、それがどれなのかさっぱりわからなくなってしまった。 「うぅ〜どうしよう」  このまま迷っている間に先方が見えたらどうしよう。気分を害して帰ってしまうだろうか。いや、もしかしたら探しにきてくれるかもしれない。いやいや、上流貴族の一人息子で国の客員剣士などといういかにも鼻っ柱の強そうな奴が自らそんな労力を割くわけがないか。脳内で思考がぐるぐると逡巡しているのを表すかのように、マリアの足もうろうろと廊下をふらつく。  と、1階から続いている奥の階段から、複数の男の声と足音がする。声から察するに、苛立ちが含まれているようだった。 「おい!なんだって俺達が食いモン泥棒なんかを追っかけなきゃならないんだ!?」 「仕方ないだろう、今日の担当なんだから」 「くそっ、だから厨房の警備なんて嫌なんだよ!」 「そう声を荒げるな。まだそのあたりに隠れているかもしれないだろう」  階段から姿を現したのは、灰褐色の軍服に身を包んだ2人の男だった。男達は廊下にマリアの姿を認めると、足早に近寄ってきて床に膝をついた。突然目の前で頭を垂れられたマリアはぽかん、として男達を見る。 「失礼致します。この階で、不審な男を見かけませんでしたでしょうか?」 「えっ?」 「やや痩肉高背、黒髪で20前後の男です」 「え、えと、見てない、です…」 「そうですか。お引き留めして申し訳ありませんでした。…おい、行くぞ。まだそのへんにいるはずだ」 「あぁ。…失礼致します。お時間を割いてくださり、ありがとうございました」 「あ、あの、ちょっと…!」  マリアの引き留める声も耳に入らないのだろうか。2人の軍人は用件だけ済ませると、焦燥を露わにして廊下を駆けていった。軍人達をとめようと控え目に挙げられたマリアの右手が、行き場を失う。 (部屋、聞きたかったんだけど)  まるで風のように抜けていってしまった希望に、溜息を洩らす。  と、同時に、空中で所在なげにしていた右手首が、いきなり強い力で掴まれた。 「いぎゃぁッ!?」 「おいおい、ひどい声だな」  頭の後ろから聞こえた声に、マリアは慌てて振り向いた。視線を向けた先で緊張感のない顔で笑っていたのは。 「ジェイ!?」 「よぉ、一週ぶり。何やってんだ、こんなとこで」 「そ、それはこっちのセリフよ!ここって一般の市民は入れないんじゃないの!?」 「甘いな、俺を誰だと思ってんだよ」 「え?…警邏、でしょ?あ、警邏の人は入ってもいいの?」 「うんにゃ。一般の警邏は、王城西塔は許可がないと全面的に立入禁止だ。他国のおエライさんも泊まったりするとこらしいからな。俺達みたいな平民が入っちゃダメなんだとさ」 「そんなのんびり言うことじゃないでしょー!?じゃぁ何でいるのよっ…あれ?」  何か、違和感を感じた。目の前の男の頭から爪先までもしげしげと眺めてみる。白いシャツ、黒いパンツ、左手に握っている、口を無造作に縛った皮袋。 「ん、どうした」 「今日は、仕事はないの?」 「いや、あるよ」 「制服、着てないじゃない」 「バーカ、制服なんか着てたらすぐに足がついちまうだろうが」 「足が、つく?……って、ああぁーーーッ!もしかしてその袋ッ!!」 「たぶんあったり〜。今さっき、ここに軍の奴らが来ただろ」 「厨房泥棒ッ!」  思わず指をさして叫ぶと、彼は心外だというように眉根を顰めた。 「人聞きわりぃな。ちげーよ、ただの罰ゲームだっての」 「罰ゲームぅ?」 「そ。仕事中の賭けで負けちまったんだ」 「賭け?」  今度はマリアが眉を寄せる番だ。どうせロクでもないことだろうと思ったが、一応尋ねてみる。ジェイはこともなげにさらりと言った。 「おねーちゃんの下着の色」 「サイッテー…て言うか!見つかったらどーすんのよ!入っちゃいけないんでしょ!?」 「まぁ、見つかったら罰則減俸かひどくて除隊、最悪、王城侵入で牢屋行きだな」 「さらっと言うなー!見つかる前に、さっさと帰りなさいよッ!」 「平気平気、俺捕まったことないしー」  じゃぁ見つかったことはあるのか。  マリアは出かかった言葉を喉元へ押し返した。この飄々とした男に何を言ってもこちらの体力の無駄遣いだと悟る。  階段の方へ押しだそうと背中を両手で思いきり押すが、悲しいかな、マリアの細腕ではびくともしなかった。 「マリアこそ、なんで西塔なんかにいるんだよ。しかもそんなドレス着て」 「こ…っ、こっちにもあるのよ、色々と!」 「王城で?ドレス着て?息苦しくて嫌いとか言ってなかったっけ?」 「別に好きで着てるんじゃないもん。着てこなきゃいけなかったんだもん」 「ふーん。こんなごてごてしたドレス着る用事って何だ?さすがお貴族様は普段も着飾らなきゃってか」 「なんか、今日意地悪じゃない?」 「さあ?気のせいだろ。それにしても、これ締めすぎじゃね?腰細っ。片腕で持てるぞ」 「ぎゃー!やめてやめて!」  と、その時。じゃれている2人の横すれすれを、小さなナイフが突き抜けた。風をきる音が一瞬耳に残る。遅れて、鈍い音がしてナイフが床に突き刺さった。  突然のことに悲鳴も出ず、マリアは冷や汗が垂れるのを感じた。ちら、と頭上のジェイを見ると、苦虫を噛み潰したような顔で床に突き立ったナイフを凝視していた。正確には、ナイフの柄頭に刻まれていた小さなダリアの花紋を。 「ジェイッ!」  背後から飛んできた鋭い声に、ジェイがビクッと肩を震わせた。慌ててマリアの腰から手を離す。  廊下の向こうから走ってきたのは、あの舞踏会の夜にいた、金髪の少年だった。ナイフを投げたのも彼だろう。麗しい顔には憤怒の形相が刻まれ、足音荒く駆け寄ってくるとジェイの胸倉を掴んで自分の目線まで引きずり降ろした。 「なっ、何だよクリス!?」 「うるさい!おとなしくしろ!」  息がかかりそうなくらいの至近距離で、ジェイの顔を凝視してくる。険しい視線で射抜かれた空色の瞳が、怪訝そうに瞬いた。 「…な、なに」 「お前、目の色変わったりするか?」 「はぁ!?」 「最近ものっすごい充血したとか、満月の夜になると真っ赤になる体質とか」 「え、え!?何言ってんのマジで。どうした?満月の夜ってナニゴト!?」 「…変か。やっぱり」 「やっぱりもなにも、お前でもそんなメルヘンなことを考えるのかと俺はものすごーくビックリしてるんだけど」 「…違うならいいんだ」  クリスはゆっくりとジェイのシャツの襟を離し、長く息を吐いた。よほど力を込めていたのか、襟には皺の跡がくっきりと刻まれている。 「あのよー、すげぇ気になるんだけど」 「うるさい黙れ。今聞いたことは忘れろ……おや、そちらの令嬢はこの前の?」  さっきの剣幕はどこへやら。一度落ち着きを取り戻したクリスを詰問するのは不可能だ。  横で呆然と2人を見ていたマリアに気づくと、クリスはつい今しがたとは全く雰囲気の異なる穏やかな物腰で、胸に手を当てて深々と礼をした。 「先日はご挨拶もせずに過ぎましたことをお許しください。マリア・ベラクア嬢でいらっしゃいますね?」 「え?あ、っはい…」 「舞踏会の時はこの馬鹿がこの馬鹿がこの馬鹿が大変ご迷惑をお掛け致しまして、代わって心よりお詫び申し上げます。何せ本人が謝罪という言葉をとんと解さない猿でございますので、毎回他の誰かが代弁せねばならず周りとしても大変面倒を被っているのですが…」 「クリス、今お前『いつか泣かすリスト』にいれた」  恨めしげなジェイの言葉にもどこ吹く風。涼しい顔でクリスは流した。 「ベラクア嬢、いつまでたってもお部屋にお戻りになられないとお兄様が心配しておられましたので、お迎えにあがりました。もうそろそろ相手方の準備も整うはずですので、戻りましょう。お供致します」 「あ、ホントですか!?迷子になっちゃって困ってたんです。お願していいですか?」 「ご随意に」 「あ、あの、私ホントただの貧乏人だし、そんなに丁寧にしていただかなくても…ホンット貧乏だし」 「そういう訳にはまいりません。陛下やフォーゲル公より、接待に失礼のないよう念入りに言いつかっておりますので」  マリアが行くならば、自分としてもここにいつまでも留まっている理由もない。いかにも「王城」といった堅苦しいやりとりを交わす2人を横目で見つつ、ジェイは窓を開け放って縁に足を架けた。2人にむかってひらりと片手を振る。 「んじゃ、俺そろそろ行くわ。罰ゲーム途中だし」 「…ジェイ。いい加減城の厨房に忍び込むのをやめろ。今は僕に見つかっているからいいが、そのうちひどいことになるぞ」 「え、何何、心配してくれてんのー?」 「あぁ、その馬鹿加減が死んでもなおらないんじゃないかと本気で心配だよ」 「お前、マジ覚えてろよ。…あ、そうだ!今晩あいてねぇの?久しぶりにデイブが帰ってくんだけど」 「あいにくだったな。今夜は城で大事な用がある。よろしく伝えておいてくれ」  本当にそのままひらっと階下に消えてしまいそうだ。2階から飛び降りようとしている時点でマリアはありえないと胸中で叫んではいたが。慌てて窓縁に駆け寄る。 「ジェイ!また、またね!」 「あぁ、近いうちにまた遊びにこいよ」 「うん!」  じゃあな、と言い残し、ジェイの姿は一瞬で消えた。ちらりと眼下を覗いてみれば、小脇に袋を抱えてすたこらさっさと走って行くジェイの背中が見える。思わず笑いが漏れた。後ろから同様に覗き込んでいたクリスが溜息を洩らす。 「本当にただの馬鹿で心苦しいばかりです。ベラクア嬢と一体どのように知り合ったのか、教えていただきたいものですよ」 「ふふっ、そんなこと言ってるけど、ジェイのこと好きでしょ?」 「好き嫌いで括れない関係ではありますね」  淡々と告げると、片手でマリアを促す。  案内を受けながら、マリアはクリスの端正な顔を見つめた。すっと通った鼻筋、長い睫毛に覆われた切れ長の瞳、光を反射して見事に輝くブロンド。どれをとっても、まるで絵画に描かれる天使のように美しかった。 同時に、上質な生地が見て取れるウェアやマント、腰に佩いた剣の見事な拵えから、彼は相当な身分にある人なのだろうな、と思う。なぜジェイはこのような上流の人と付き合いがあるのだろう。しかも、かなり気心の知れていそうな関係に見えた。  今度ジェイに会ったら聞いてみよう。そうぼんやりと考えながら、目の前で静かにひらめく黒いマントに遅れないよう、一枚の連続絵のような廊下を歩いていった。




←BACKNEXT→