まだ昼間だというのに、部屋は薄暗かった。大きな窓を覆うワインレッドのカーテンが差し込もうとする陽光を遮断している。  かろうじて開いた拳大の隙間から射す明かりだけが、室内をぼんやりと照らしていた。  男はテーブルの上にゆっくりと肘をつき、目の前で静かに一礼する部下を眺めた。やたら豪華な肩章から垂れる細布が左の二の腕にかかるのを、煩そうに右手で払う。  つまらない。  部下が報告をしてくるのは、普段と変わり映えしないことばかりだった。納税状況、今月の物価の変動、輸出入の品目、そんなことばかりである。男はくぁ、と欠伸をもらした。 「最後に、例の飛行艇の件ですが…」 「あぁ、もういいよ。つまらないねぇ」 「は?いや、しかし…」 「あのことは父上に任せておけばいいさ。僕はただ、この街をいつもと変わり映えなく円滑に機能させていればいいんだから。難しいことはぜーんぶ父上とその周りの仕事、だろ」 「はぁ」 「僕はね、父上が何を企んでようと興味ないの。最近共和派がうろつくようになったけど、それが父とどう関係しているかもどうでもいいんだよ、今はね。」 「あの、そのことなのですが…」 「うん?」  目の前の部下は、言いにくそうに視線を泳がせている。報告書を持つ手がせわしなく動いていた。紙がガサガサと音を立てる。言えよ、と促すと、部下は肩をすぼめて無意識に声を潜めた。 「あくまで噂でしかありませんが…皇帝の直属護衛隊がこのサイザリスに入ったようです」 『直属護衛隊』  男の眉が動いた。それは、帝国においてあまりに有名な単語。ここ数年で一気に知名度を上げた、若者達の集団である。天駆ける船と、姿形を変化させる摩訶不思議な剣。出自も身分もバラバラな帝国史最低の野蛮人共だ。皇帝のためなら血の粛清も厭わない彼らのを、人はしばしば死神と呼んだ。  大半の貴族はその名を聞くと怖れ慄く、もしくは嫌悪感をあらわにする。そしてこの男はというと、ぐいっと机から身を乗り出した。若干頬が上気している。 「紅髑髏がきてるのか!なぜ?」 「こ、声をお抑えになってください!どこで聞かれているか…。サイザリスでの共和派の潜伏活動が目に余ったようです。今回はおそらく、現地視察に訪れただけと思われますが…」 「そうか、彼らが来てるのかぁ。紅髑髏って6人構成だったか?全員来てるのかい?」 「いえ、門の報告では2人だと…」 「2人、か…。それでも文句を言っちゃいけないよね」  男は右手を口にあてた。形の良い唇が歪んで、隙間からくすくすと笑い声が漏れる。 「それは、丁重にもてなしをしないといけないなぁ。ぜひ、僕の計画のお手伝いをしてもらわなくちゃ!楽しみだなぁ。隊長は義に厚い人物だっていうから、きっと手を貸してくれるよね。だって殺しは彼らの専門分野だもの」 「ですから、声をお抑えくださいと…」 「あれ、お前まだいたの。何を突っ立ってるんだい?さっさと行って彼らの宿を調べてきておくれよ!」 「はぁ、御意…」  主人に注意を促しても無駄と悟ったか、部下は小さく肩を落として頭を下げる。サイザリスは帝国で一、二を争う貿易都市で、国内外からの人の出入りが激しい街だ。宿といっても大小合わせて100に届くかという規模である。そう簡単に2人の人間が見つかるだろうか。  内心頭を抱えていると、背後から呑気な声に呼び止められる。 「あぁ、そうだ」 「…。はい?」 「さっきの飛行艇の資料はおいていってくれ。後でちゃんと見ておくからね。それから輸入の件だけれど、これ以上輸出額が上がるようなら関税の引き上げを検討しようじゃないか。赤字は嫌だものね。赤はとっても綺麗だけど」  先程までとは打って変わってにこやかに、活き活きとした表情で仕事の話をする。資料を受け取ると、きびきびとした動作でそれを分類し、金縁の眼鏡まで取り出して記載された文章を読み始めた。  部屋を退出した部下は、こっそりと心の中で毒づく。 (とんだ気分屋だ、マラクト侯の嫡子殿は)  厳格な父親とは正反対なのだと、妙に納得した。それがいい方向なのか悪い方向なのかは、彼にも、当の嫡子殿にでさえあずかり知らぬことなのは、言うまでもない。



 その日は朝からうだるような暑さだった。  街のメインストリートからは一本隔てたところに、その宿はあった。築50年は越えていそうな木造建築は雨風を長年耐え忍んだせいか、見た目でわかるほどに老朽化していた。次に嵐が襲ってきたら、この形を保てるかどうかわからない。  入口のドアに取り付けられた鐘がカラカラと音をたてる。来客の合図だ。入ってすぐは宿泊客専用の食堂になっており、カウンターでグラスを磨いていた主人が顔をあげた。姿を見せたのは、昨晩から止まっている客である。確か長身の男と小柄な少年の2人づれだったはずだが、入ってきたのはその片割れだった。標準より背高な男に、主人はにこやかに声をかける。 「おやお客さん、お帰りなさい」 「おう」  短く返事をした相手は大股でカウンターに歩み寄り、ドカッと腰を降ろした。白い襟シャツのボタンは上3つが外されていて、鍛えられた胸板に揺れる銀のチョーカーが顔をのぞかせている。  男は細長のサングラスを無造作にはずし、長く息をつきながら顔面を突っ伏す。後頭部でくくられた見事な銀の長髪がはずみで揺れた。そのままくぐもった声で文句を漏らす。 「なんでこんなあっちぃんだよ。どうかしてるぜこの街は」 「ははは、お客さんサイザリスは初めてだったね。ここは南部だ、暑くて当然さ。これでもまだ雨季明けに比べればマシだよ」 「まじかよ…雪国育ちにはキツいな」 「ところで用事とやらはうまくすんだのかい?」 「程々ってところだな」 「おや、イマイチだったのかな?」 「逆だ。何事も、最初からあまり軌道にのりすぎると後に痛い目をみる」 「なるほどね」  主人はうなずきながら、男の前にグラスを差し出す。なみなみとつがれた冷たい水を、男は一気に飲み干した。まるで酒を煽るかのようなその飲みっぷりに、主人は苦笑する。  そこで、ふと思い当たることがあった。空のグラスを受け取りシンクへと向かいながら、客へ問いかける。 「ところでお客さん、お連れの坊やは何をしているんだ?さっき部屋の前を通った時、中から何やらうんうん唸る声がしてたよ」 「あぁ?何やってんだあいつは」  男は眉をしかめて、2階へと続く階段を見やった。  今朝出かける時にちょっとばかり仕事を言いつけた覚えはあった。しかし、そんなに唸るほど難解な用事を与えたわけでもない。馬鹿でもできる簡単な作業だ。  そこで男は重大な事実にふと気づき、眉間の皺をさらに深くする。  あぁそうか、あいつ馬鹿以下だったっけ。



 足りない。  ユアンは、もう一度首を落として深く唸った。  踏み出せば激しく軋音がするほど腐りかけた床にあぐらをかき、悩ましげな表情を浮かべている。彼の前には、金銀大小様々な形をした勲章が並べられていた。どの勲章にも金属なり布なりのどこかしらに獅子を思わせる施しがしてある。帝国軍人の誉れと栄光を象徴するものだ。  胸の前で組んだ腕を解き、もう一度勲章の数を数えてみる。  イチ、ニィ、サン、シ、ゴ…………………ロク。 「……ない」  やばい。ユアンの額を一筋の汗が滑り落ちた。  かれこれ小一時間はこうして数を数えているが、何回やっても6つは6つ。急に分裂して数が増えるわけもないし、こんな5才児でもできそうな数を間違えていたら、自らの沽券に関わる。しかし記憶と現実の数がどうしても合わないのだ。自分の物ならまだしも、これらは兄貴分の授与した勲章の数々である。  そうして再び頭を抱えるユアンは、誰かが階段を軋ませて2階へ上がってくるのに気づかなかった。  足音が部屋の前で止まると、一息もつかずに乱暴にドアが蹴り開けられた。ドアは壁に激突して部屋全体が揺れるが、ユアンの悩める唸りは止まらない。  乱暴に部屋に踏み入ってきた男は首を回しながら、ユアンの背を靴の先で小突いた。 「よーぉ帰ったぞチビ太ァ」 「うーん」 「それにしてもあっちぃなぁ。水だけじゃ足んねぇや。茶ぁだせ茶!冷たいやつ」 「うぅーん」 「ついでに街の様子でも教えてやるよ。聞きたきゃさっさと速やかに用意しろ。おい、ハンガーどこやった?」 「うぅーあああぁ」 「てめぇ聞いてんのか茶だっつってんだろうがァ!」 「はぶぁッ」  予告なしに男の踵がこめかみにヒットし、ユアンはそのまま床に撃沈した。


「獅子が一頭足りないだぁ?」  グラスを傾けながら、ガイは目の前の少年に半眼を向けた。  結局茶は用意できなかったため、ユアンが階下まで水を汲みに行ったのだった。ガイの前で膝を抱えたユアンは、水で喉を鳴らしてから小さく頷く。  『獅子』とは、軍人達の間で勲章を示す呼称の1つだ。床に並べられた獅子、もとい勲章に目をやり、ユアンはしょげたようにため息をついた。 「絶対7個あったはずなのにさぁ…」 「どうせおめぇの数え間違いだろ」 「違うってー!俺ちゃんと数えたもん!7個あったんだよ!」 「間違い間違い」  片手を振って適当にあしらいつつ、ガイはグラスの水を喉に流し込んだ。足を左右組みなおすと、座っているベッドが鈍い軋みをたてる。ユアンが床に座ったままでいるせいか、見おろす頭はいつもより低い位置にあるように思えた。このままこの弟分の身長が止まるとしたら、少々困りものだ。  そのユアンはというと、ガイのぞんざいな態度にむくれている。納得がいかないようだ。  肩をすくめつつ、ガイはとりあえず話題を変える。 「一通り中心街だけ回ってきたけどな、やっぱ何かあるぞこの街」 「なんで?そーいや、そもそも何調べにきたんだっけ」 「ほーぉよっぽど俺様の拳が欲しいと見えるな、このチビチビチビ太は」 「げっ嘘嘘!覚えてるよちゃんと!共和派の調査でしょ!」 「でけぇ声でわめくんじゃねぇよタコ!」  結局ガイの拳はユアンの脳天に叩き込まれた。  涙目になって呻く弟分に舌打ちをし、ガイは街の地図を床に広げる。自分の座っている位置から床までは距離がある。壁に立てかけておいた剣を鞘ごと掴み、地図の一点を指した。 「俺らがいるイースト区がここだ。で、こっちが貿易区」 「ふんふん」 「で、今こっちの商業区からぐるっと回って貿易区まで見てきた。ちなみに今日は月に1度の市が立ってるらしくてな。露店で売ってたフルーツがうまいのなんの」 「えっずりぃ!お土産は!?」 「ちゃんと聞け阿呆」 「痛っ」  鞘の先でユアンの額を打つ。理不尽な暴力にも少年はめげずに地図に視線を注いだ。右手で押さえた額は少し赤くなっている。  サイザリスは帝国南部最大と謳われる貿易都市だ。帝国外との交易が盛んになるにつれてどんどん土地を拡大させていった街である。綺麗に区画整理された帝都と違い、適当に区分された地区は入り乱れ、地図も自然と複雑なものになってくる。  ユアンは顔を顰めた。 「俺この地図ぜんぜんわかんない」 「あぁ、お前馬鹿以下だもんな」 「何それ!?せめて馬鹿だと思ったのに!大体ガイさんさぁ…「話そらすな馬鹿以下。それでだな、まーお前に言ってもわからんだろうが、共和派の奴らが西の中立国から『飛石』を輸入してんのは本当らしい」 「いいなー俺も飛石ほしいな」 「やかましい黙れ。この輸入の糸ひいてんのが、ここの領主のマラクト侯爵だな。こいつが共和派から科学者を募って飛行艇を造ろうと企んでやがる」 「ふーん大変だ」 「なんかムカつくなお前。とりあえず、今晩から街に出るぞ。しらみ潰しに証拠を探して来い」 「見つけたら?」 「潰す」 「りょうかーい」  へらっと笑って敬礼した。やっと実地の仕事が与えられて、少しだけわくわくしているようだ。  ガイは地図をたたんでベッドに放る。剣ももとのように窓横の壁に戻した。  ユアンが床を軋ませながら身を乗り出してくる。 「ガイさん、そのマラクトっておっさんのとこにはいつ行くの?」 「明日だな。さっき屋敷に行って了解とってきた」 「えぇっ!じゃぁ明日までに勲章探さなきゃじゃん!」 「いらねぇよ別に。6つもありゃ貴族相手には十分すぎんだろ。ていうか、6つもつけたくねぇし。邪魔」 「なくなっちゃったヤツどーすんだよ」 「別にあんなモンあってもなくても変わりゃしねぇだろうが。ギャーピー騒ぐな」 「変わるよ!だってあれ『ドザ』の…」 「あ、もう水ねぇや。ちょっと汲んでこい」 「は!?またかよ!話聞いてないし。つーか、飲みすぎ!牛!」 「あぁ!?てめぇもっぺん言ってみろコラァ!」 「うわわ痛い痛い痛い暴力反則ムリ反対反対ぎゃぁぁー!」  一瞬にして掴み合いが始まる。ユアンの頭を捕らえて両の拳で締め上げると、断末魔のような叫びが響いた。解放と同時に尻を蹴りつけて、部屋から追い出した。もう手の届かないのをいいことに、扉の向こうから鬼ーとか馬鹿ーとか叫ぶユアンの声が聞こえる。戻ってきたらもう一発だ。  ユアンの足音が階段をぱたぱたと降りていく。それを耳で確認すると、ガイはズボンのポケットを漁った。  そこから取り出した、1つの小さな勲章。鈍色の丸い銅板にの中央では獅子が踊っている。上部にはガイの当時の所属と名が彫ってある。そして下部には…

『E1088 DOZA』

 指で、その文字をゆっくりとなぞる。 「人が気ぃ使ってやってんのがわかんねぇかな、あのガキは」  呟いた口は笑みを浮かべていたが、その表情はどこか悲しげだった。
 もう、11年になる。帝都から遠く離れた南部の地で、小さな村が地図から消えた。  気の滅入るような雨の日で。  その日も嫌になるような暑さだった。  村の跡地は、このサイザリスのすぐ近く。歩いて1日もかからない。  その村の名前は、「ドザ」  特別なものは何もないけれど、暖かな人達が暮らす、平和でのどかな村だった。



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