帝国の政治と経済の要である帝都は、皇帝陛下が住まうローウェン城を中心とした環状都市である。城に近い順に5つの地区にわかれ、身分と貧富によって区分けされていた。中でも、最も夜ににぎわう地区がある。一般的な平民が多く在住する第3区『ドリッテ』だ。ドリッテの北側に位置する繁華街は、夜になっても煌々と灯りがともされ、眠らない街として有名である。数多くの酒場や娼館、賭場が立ち並び、数多の人間が闊歩していた。
 今夜も例外ではない。  もう深夜を回ろうかという時分、人々の嬌声や罵声で通りは埋め尽くされていた。その中をゆっくりと歩をすすめる男がいる。いろんな方向に飛び跳ねた茶色いくせ毛に丸い黒サングラス、薄汚れたカーキ色のコートを纏い、いかにも怪しい風体だった。娼婦達もその外見に警戒し、客引きに引っかけようともしない。男は周りの店や人間には目もくれず、目的地を目指して歩いていた。時折「よぉ久し振り。生きてたのか」などと声をかけてくる輩と軽く挨拶を交わす程度だ。  通りに並ぶ建物の中で一際派手な装飾を誇る娼館の手前の角を曲がると、細くて暗い裏路地に入る。その路地の右側に申し訳程度に看板を構えている、ある酒場があった。  男は迷いもなくそこへ歩み寄ると、小さなベルのついた扉を開いた。


「はああぁぁ…」  カウンターの内側から机に肘をつき、盛大に溜息をもらす人物がいる。  肩を越えて肩甲骨の下までまっすぐに伸びた髪には、黄緑色のメッシュがふんだんに織り込まれている。目にかかる前髪を掻きあげる仕草やばっちり施された顔のメイク、さらに全身を包むきらびやかなシルバーのドレスは、完全に女性のそれである。にもかかわらず、彼には隠しきれない喉仏とこれでもかというほど隆々と湧きあがった上腕二等筋があった。ついでに言えば、下半身にも立派な証がある。ジョラルド・リボーキー、自称「女豹のジョリー」は、自身が何と主張しようと生物学的に完全なる男性であった。  そして彼女…いや彼は、現在の自らの境遇を嘆いて肩を落としている。 「さみしい…」  そんな言葉がつい口をついてでた。野太い声を無理やり裏返らせたような奇妙な声である。誰に言うわけでもない、完全な独り言だ。彼が経営する酒場「シェーデル」の店内には、客は誰一人いなかった。それもそのはず、この酒場には必ずと言っていいほど常連しか通わないのである…なんて言うと会員制の高級クラブのようだが、何のことはない。普段訪れる客達が毎回大騒ぎをして暴れるため、普通の客が寄りつかなくなっただけの話だ。その常連の奴らでさえ、今夜は誰も顔を見せない。 「寂しい、さびしい、淋しい、さみしいじゃぁないのよおぉぉっ!」  吠えながら、拳を思いきりカウンターに打ちつける。衝撃で店が揺れた。ワイングラスが1つ、床に落ちて空しく砕ける。  それにはお構いなしに、ジョラルドはさめざめと両手で顔を覆った。 「なんなの、なんなのよ今日は!誰もこないってどーいうこと!?みんなでアタシをいじめてるの!?ユアンちゃんも来ないなんてっ!あの『ジョリー大好きっ★』の笑顔は嘘だったのね!?みんなでアタシをもて遊んで遊びまくって転がして、あとは丸めてポイするつもりなのねぇぇぇ」  うぉんうぉんと泣いてみる。まぁ落ちつけよ、というように店内には小粋なモダン音楽が緩やかに流れていた。  思いきり叫んで落ち着いたのか、一人泣きまねごっこに飽きたのか、ジョラルドは突然顔をあげた。先ほどまでとは打って変わった真剣な眼差しで、どこか虚空を見つめるように店の天井を眺める。 「サイザリスか…」  呟いた声は、裏声ではない彼の素の声だった。  カウンターの上に広げてあった小さな紙をつまみあげる。そこには、先ほど外へ出た際に情報屋からもたらされたモノだった。羅列された文字を、眉根をよせて見つめる。再び溜息をつこうとして…不意に、入口の扉につけられたベルが鳴った。来ないはずの客の来訪である。ジョラルドはとっさに紙を拳の中に丸めて隠した。  姿を現したのは、一人の男だった。細身の長身、目立ったところは特にない。あらゆる方向へ跳ねた髪と丸いサングラスが特徴といえば特徴か。  怪しすぎる正体不明のその男。しかしその冴えない格好と薄汚れたコートに、ジョラルドは嫌というほど見覚えがあった。  まさかと思いながら口を開く。 「…ロン、ちゃん?」  男は、口の端をあげて軽く笑った。サングラスをひょい、と外す。途端、その下から人の良さそうな茶色の瞳が現れた。バツが悪そうに頭を掻きながら、男はあっけらかんと告げた。 「久しぶり、ジョラルド。城抜けてきちゃった」  きちゃった、じゃねぇよ20半ば男が!と内心思いながらも、ジョラルドは今度こそ本気で泣き声とも叫び声ともつかない唸りをあげた。驚きと嬉しさとちょっとした怒りがない交ぜになって、形容しがたい感情が湧き上がってくる。
小さないたずらを成功させた子供のような顔で目の前に立っているその男は、この帝都の主であり帝国の頂点に君臨する、フェルロン・ロマディウス皇帝陛下その人であった。


「ロンちゃんてばロンちゃんてばロンちゃんてばほんっっっとバカ!!自分の地位とか立場とかわかってるの!?命の大事さがわかってないようね?ホラここに10回『命』って書きながら大切さを噛みしめなさい!バカバカバカでも大好き!」 「えーと一応ありがとうジョラルド」 「もーっ『ジョリーって呼んで』って何回言わせるのかしらロンちゃんたら!」 「あぁ、そっか。ごめんジョリー」 「いいのよロンちゃん」  だいぶ珍妙な会話を交わす。こんな何気ないやりとりさえも懐かしい。こうして周りの目を気にせず2人だけで顔を合わせるのは何年ぶりだろうか。2人は目線を合わせて、お互いににっこりと笑った。  カウンター席についたフェルロンの前では、ジョッキにつがれたビールが泡をたてている。ジョッキを手に取り泡をすするようにして飲むのを、ジョラルドは見つめていた。店内の音楽は女性ボーカルのラブバラードに変わっていた。 「ねぇロンちゃん、真面目に言うけど、今は1人で出歩いていい状況じゃないでしょう?会いにきてくれたのは嬉しいけど、今この国で一番命を狙われる可能性が高いのはあなたなのよ?わかってる?」 「俺よりガイの方が狙われてると思うぞ。いろんな所で恨み買ってるから」 「あいつは殺したって死なないから別にいいのよ。論外論外、論ずる価値もナシ!」 「随分な言われようだなぁ」  ジョッキの取っ手を指でなぞりながら、フェルロンはにこにこと笑う。 「まさかこんな格好で街をうろついてる奴が皇帝だなんて、誰も思わないから大丈夫だよ」 「秘書の坊やは知ってるの?」 「いや、黙って出てきた。抜け出したなんて知れたらまた大目玉だからな」 「ロンちゃん、お願いだからアタシの言うこと聞いてちょうだい。これからは城を抜け出さない!用があったら呼び出せばいいから。共和派がどこに潜んでるかわからないのよ?」  ジョラルドがカウンターから身を乗り出してくる。顔を覗き込んでくるその瞳には、本当に心配そうな色が浮かんでいた。彼はいつでも本気で自分のことを考えてくれている。それがわかっているからこそ少々心が痛んだ。申し訳ないと思いながらも、フェルロンは頬をかいて苦笑する。 「ずっとあんな城にこもってたらストレスで病気になるよ。それに、今までも何回かガイと一緒に抜け出してたし」 「ああぁぁんの唐変朴がぁぁぁぁ!!アタシのロンちゃんに何かあったらどーしてくれるつもりなのっ!?」 「ジョリー、声もどってる」 「あら、いけない」  口に手をあててホホホと笑う。空になったフェルロンのジョッキをさげて、新たなビールを出してきた。もう1つグラスを取り出し、ウイスキーを注いで自らの前に置く。先ほどくしゃくしゃに丸めて隠した小さな紙を取り出した。 「まぁ抜け出してきたのはホント褒められたことじゃないけど…ちょうど良かったかもしれないわ。さっき外に出た時に例の坊やから情報をもらってきたの。サイザリスの件よ」  フェルロンに紙を手渡した。ウイスキーのグラスを傾けて喉に流し込む。この焼けるような感覚が好きだった。 「あぁ、今ガイとユアンが行ってるな。レイ達も機体の回収目的でそっちの方にむかったみたいだ」  紙を受け取ったフェルロンは内容にざっと目を通す。ジョラルドを介していつも情報を売ってくれる人物は、信用のおける筋だ。誰を信用していいか迂闊に判断できない時勢だが、この情報屋がもたらすことは大抵事実として受けとめることができた。今回もきっとそうだろう。 「そのサイザリスでいろいろときな臭い噂があるらしいの。ガイ達が査察に行った目的である飛石についてはいいわよね?」 「マラクト候が貿易に介入して不正輸入を行ってる件だな。こちらに申請した5倍近くの飛石が毎月サイザリスに入ってきてるらしい。何に使おうと企んでるか知らないが、それだけで重大違反だ」 「どうせ共和派に流す兵器でも作ってるんでしょ。それと、そのマラクト候なんだけど、今サイザリスの情勢が微妙に不安定らしいわ。彼の息子が父親を離れて独自に水面下で動いているみたい。それがどうも父親に反する動きらしいわね。マラクト候は共和側の人間と考えていいけど、息子の方はまだ保留にした方がいいみたい」 「もしかしたらこっちの味方になるかもしれない、ってことか。そりゃいいな。あー、じゃぁサイザリスの勢力内で内乱になることもあるってことだ。ガイはこのこと知ってるかな?」 「どうかしら。あの男妙に勘がいいから。まぁ、息子の存在を把握してなければお話にならないけどね」 「なるほどなぁ。まぁ任せるしかない…」  紙に記された内容を追っていたフェルロンの目が、ある1点でとまる。既に読後のジョラルドは、誰にともなく肩をすくめた。飲まれずに放置されたビールの泡がだんだん萎んでいく。フェルロンが呆けたような声でつぶやいた。 「なんでミリアリアがサイザリスにいるんだ?」 「さぁ。またアロドの思いつきじゃないかしら」 「明日にはこっちに戻ってくる予定だったろ!?なんでわざわざあんな危ないところに行くんだよ!」 「さーぁ。アロドの思いつきなんでしょ。多分軽いリゾート気分よ。あの子達任務でいなかったから、サイザリスの情報が伝わってないもの」 「うそだろ…」  片手で顔を覆って天井を仰ぐ。慰めるようにジョラルドが肩を叩いた。  情報屋が寄こした紙には、ミリアリアがマラクト・ジュニアの招待で郊外に別荘に招かれている旨が記してあった。そこに自称恋人でボディガードであるはずにアロドの名前は、ない。代わりに共に記されている名前は、フェルロンがよく知る人物だった。それで安心できるかと言えばそんなことはなく、心労がさらに2倍になっただけのことである。
 フェルロンは大きく息を吐きながら、カウンターに突っ伏した。

 あの、じゃじゃ馬め。



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