今夜のアロドは上機嫌だった。  彼がいつでも上機嫌かと言われると、実際そんなことはない。というか、限定されたある人物に関わること以外で彼の機嫌が良いのは稀と言ってよい。  それで今夜の彼の機嫌はその稀な類なのかと言われれば、それもそんなことはないのだった。  つまりは只の「いつも通り」
 緩みきった口元を隠そうともせず、鼻歌まで歌いだしそうな勢いでアロドは足取り軽く夜の街を闊歩していた。先ほど宿屋の部屋の前で別れたミリアリアの言葉を思い出す。
『今日は楽しかった。つれてきてくれてありがとう』
 朝に馬鹿とか公害とか散々罵倒した手前、なかなか素直に礼を言いだせなかったのだろう。立ち去ろうとしていたアロドのシャツの裾を掴んだ細い指だとか、頬を赤らめて視線を逸らす態度だとか、照れのためにか細くなる声だとか。とりあえず思い出す限り彼女の全てが可愛くて、彼女の全てが愛おしかった。 「や、もう幸せ。ダメだ、幸せすぎる。死にそう」  口内でブツブツと呟きながら、アロドは懐から煙草の箱とライターを取り出した。ミリアリアの前では絶対に吸わないと誓っているが、今は1人だ。器用に片手で1本取り出し、火をつける。ふぅーと吐いた煙は細長く立ち上り、ネオンに照らされた夜空へと消えていった。
 アロドが今いるのは、サイザリスの歓楽区。街はこの地区を中心にして拡大しており、貿易や観光で訪れた人々が集まる場所だった。土産物屋をはじめ、宿屋、賭場、酒場、娼屋、とりあえず思いつく限りの娯楽施設は大抵揃っている。観光客ばかりでなく血気盛んな船乗り達も夜のお楽しみを目当てにぞろぞろと姿を現し、日没後のこの地区の治安はお世辞にも良いとは言えなかった。 「ちょっとお兄さん1人ぃ〜?うちで飲んでいきなさいよ、かわいいの揃ってるわよ」 「化粧濃い、けばい、じゃぁね」  胸元肌蹴た衣装で擦り寄ってくる女を、右手を振って適当に追い払う。1人でのんびりと飲みたかった。見知らぬ女達をはべらせて、くだらない話をしながら酒を味わう気はさらさらない。  興味がないんだ、色気で迫ってくる熟女とか、店にいるとかいうかわいい子とか。だって俺にはミリアリアがいるからさ。 「ああぁ〜もうなんであんな可愛いんだろ、ほんとやばいって」  独り言を洩らしながら頭を抱え、勝手に頬を赤らめたりにやけたりしている男の横を、通行人達は奇怪な目を向けて通り過ぎていく。夜になると必ず出現する酔っ払いや変質者だと思われたことだろう。  そんな周りの視線など露とも気に掛けず、手頃な酒場を見つけるために雑踏を抜け出そうとアロドは少し歩調を速めた。  と、人混みを掻きわけて飛び出してきた若い男とぶつかる。 「おっと」 「うわっ、わ、わりぃっ!」 「いいよ別に」  心底どうでもいい顔で言い、彼のために道をあけてやる。男は軽く会釈をすると、転がるように走り出した。もとから興味のなかったアロドはそのまま背を向けて歩き出す。 「おいっお前らちょっとこいよ、やべぇぞ!!」 「んぁ?んだよサンク、おめぇどこ行ってたんだよ」 「おせぇぞ」 「もう飲んでるぞ」 「ひゃははは!」 「だーもううっせぇなお前ら!やべぇんだって!すげぇんだって!すげぇ喧嘩やってんだよ!」 「何それ」 「どこで」 「そこの"キャンティス"で、なんかやたらすげぇ奴がすげぇ喧嘩しててとりあえずすげぇんだよ」 「お前『すげぇ』言いすぎじゃね」 「何言ってるかよくわかんね」 「うっせ!とにかく来いよ、あんなの闘技場でもなかなかみらんねぇぞ」  サンクと呼ばれた男の興奮しすぎた気迫に負けたのか適当に同調したのか、道端に座り込んでいたほろ酔い状態の若者集団がゆらゆらと立ち上がり、移動を始める。仲間をせかすあまり前方の注意が疎かになっていたサンクは、再び何かに激突した。慌てて見上げると、先ほどぶつかった男だった。  ぶつかられたアロドはというと、突然の背後からの衝撃にどうやら煙草を落としたらしい。若干眉根を潜めてサンクを見やった。 「あっアンタさっきの…ほんとわりぃ!」 「いいけど」 「ほら、お前ら早くしろよ!終わっちまったらどーすんだ!」 「ねぇ」 「え?」  仲間をひきずり、背中を叩いてせかすサンクに、アロドは声を投げかけた。地面に落ちた煙草の火を、靴の踵で踏み消す。  サンクと視線がかち合うが、にこりともせずに訊ねた。 「"キャンティス"ってどこにあるの?」 「え?あ、あぁアンタも見にいくところなのか?」 「興味ない。酒が飲みたいんだけど」 「えーっと…確かにあそこは酒場だけど今飲める状態かどうか」 「いいよ、行って。勝手についていくから」 「えぇと、あぁハイ」  "キャンティス"と言えば、確かガイドブックに載っていたサイザリスでも伝統ある老舗の酒場だ。近くにあるというなら、行ってみるのも悪くない。  新たに煙草を取り出し、火をつける。  煙草同様ミリアリアの前で酒は飲まない。が、酒をたしなむのは嫌いではなかった。  微かな期待にアロドの胸が弾む。  ミリアリアに関わること以外で彼の機嫌が上昇する、極めて稀な瞬間だった。



 夜は大人の時間、とはよく言ったものだ。  最近では深夜を回っても通りを徘徊している若者も多いが、ガイの連れはその例外に当てはまらないらしい。健康的な子供よろしく、10時過ぎにガイが風呂から上がると、焦げ茶色の頭はベッドの上で丸くなって安らかに寝息をたてていた。  今晩から出るっつっといたろうが、と内心舌打ちをする。  叩き起こすという手段もあったが、あまりにも気持ち良さそうに寝ているので放っておくことにした。  子供は寝とけ。そしたら背も伸びるかもしれないから。17歳ではもう見込みはないかもしれないが。  黒地に細い銀のストライプのシャツを1枚羽織り、第3ボタンの下まで止める。素肌に触れたチョーカーがひんやりと心地よい。同じチェーンにさげられたプレートタグとリングがぶつかって、ちゃらちゃらと固い金属音がした。 「さて、行くか」  帝国内外から人の集まるこの街は、外見の華やかさに反して案外物騒だ。夜になると余計治安も悪くなる。用心のために剣を腰に差し、ガイは宿を後にした。

 この街で一番人が集まる場所、と昼間に露店の主人に尋ねたところ、歓楽街にある酒場を紹介された。  入口の上に掲げられた"キャンティス"と公用語で記された木製の看板は、派手な装飾で気取った他の店とは一線を介し、どこか風格のようなものが漂う。  サイザリスで最も古い酒場らしい。地元の常連客から貿易商や船乗り、流れの旅人まで国籍を問わず様々な人々が集まり、ある種の人種の坩堝のようなものが形成されている。  広々とした店内で、楽隊の奏でるアップテンポの曲が人々のざわめきと混じり合って聞こえる。リズムにのせてわずかに体を揺らしつつ、ガイはジンの注がれたグラスをかたむけた。
 さて、どうやって切り込めばいいものか。
  そもそも今回はるばるサイザリスまでやってきた目的は、領主マラクト侯の管轄である帝国外との貿易において輸入されている『飛石』の量が、国に規定された値を遥かに上回っているとの報告の真偽を確かめることである。 『飛石』とは大陸の北端にそびえる山の麓で掘れる鉱物で、その名の通り飛行能力を持つ石である。と言っても実際に石自体が宙を舞う訳ではない。適切で複雑な加工とパルスが揃って初めて、物体を浮かすエネルギーが発生する。  しかし、実際それが日常的に利用されていたのは何百年も遠い神代のことである。神代より技術力で遥かに劣り能力者の数も激減した現代では、飛石は『神代のブラックボックス』と呼ばれ、実用的な使用は大層難度の高いこととされていた。 「『飛石』は未知とロマンの詰まった鉱物」「空飛ぶ船なんて夢のまた夢」  世間に流れるこの定説を一瞬で吹き飛ばしてしまったのが、帝国御用研究者であるマルロ・ジルクリストである。彼女は遺跡から発掘された神代の遺物を徹底的に研究し、ブラックボックスの構造を解析してしまったのだ。さらに同時に掘り出してきた数機の小型飛行艇を改造し、実用可能にするという偉業をやってのけた。まさに「天才」と呼ばれるに値する科学者である。その飛行艇というのが、ガイやユアンをはじめとする王族直属護衛騎士隊、紅髑髏が使用している飛行機だ。  現在使用可能な飛行物はその数機を除くと帝国軍の軍用空母や大富豪の自家用機のみであり、反帝国を謳う共和派にとって飛行機というのは最大の脅威なのであった。  その共和派との繋がりが疑われているマラクト侯が仕切るサイザリス貿易で、飛石の大量輸入が行われている。  これは、調査の必要ありというわけだ。  信頼できる情報筋からきた報告なので、輸入違反の件は確実にクロだと思っていい。が、相手を追い詰めるためには確たる証拠が必要だった。それにはまず、情報収集が基本。  隅の丸テーブルに1人腰を降ろしているガイは、ぐるりとと視線を店内に巡らせる。仲間と陽気に酒を煽る者、1人で静かに酒を楽しむ者、賭けカードに勤しむ者、歌いだす者、踊りだす者、寝る者、とにかく人、人、人…。  とりあえずガイはしばらく人間観察を楽しむことにした。比較的近いテーブルでジョッキを高々と掲げる外国人。ズボンのケツが破れている。遠くでカードをやっている若者達。こちらに背中を向けた1人がテーブルの下で不自然に袖を小さく振るった。イカサマだ。むこうには酔っぱらった船乗り達。乾杯の勢いが強すぎてグラスが弾け飛んだ。  これが存外面白い。口元を片手で覆って含み笑う。ふと、耳に甲高い男の声が入ってきた。 「よおよおよぉ、見ろよこれぇぇ」  周りの同朋に語りかける口調は呂律が回っていない。相当量の酒を飲んだのだろう。顔が不自然に紅潮している。男は懐からくしゃくしゃになった1枚の紙を引っ張りだした。紙の上部には可愛らしい字体で『FUKUEP』と記され、数着の洋服のイラストが描かれている。どうやらブティックのチラシのようだ。  男は『FUKUEP』の部分を指でさしながら周囲に「わかるか?」と問いかける。皆は首を傾げた。 「お前らわっかんねぇーのかよ!よく見ろよ!『Fuck you,Emperor <帝王、お前を犯す>』だよ!ぎゃはははは!」  店の数ヶ所からはどっと笑いが起こる。しかし、あからさまに顔を顰める者もいた。ガイも頬杖をついて憮然とした表情を見せる。おそらく彼は共和派の若者なのだろう。
 完全な王制を敷いてきた帝国内で、数十年前に「民衆による民衆のための政治」を謳った13人の平民達がいた。現在の王制を廃し、一般国民からの代表を募って議会を開こうというのである。もちろんそんな主張が王に認められる訳はなく、彼らは謀反を企む反乱分子として処刑された。彼らの遺志を継いだ形となる世論の派閥が、所謂「改革共和派」である。  トップを作らず身分を廃し、皆が平等に暮らせる社会を願っている。それ故に、元来のままの帝国の在り方を支持する「保守帝国派」とは激しい対立を繰り返してきた。近年は過激な武力行使による抵抗運動も見られる。共和派内の王族の権威は今や地に堕ちたと言っても過言ではなく、改革共和派の存在は帝国にとってまさに最大の内憂であった。
 ガイは不機嫌そうに眉間の皺を深めながらも、その場を動こうとはしなかった。親友をネタにした下世話な冗談に腹はたつが、今までにも帝国や帝王を的にした質の悪いジョークなど嫌というほど聞いている。これがユアンだったらムキになって相手につっかかっていくだろうが、いちいち激昂して殴り倒していたらキリがないということをガイは経験から知っていた。 (アホ言ってろ、クソガキが) 「阿呆なことぉぬかしてんじゃぁねぇこンのクソガキゃぁぁぁ!」 「え?」  すぐ右で聞こえた咆哮のような叫びに、ガイは顔を上げた。まるで自分の内心を言い当てられたようで一瞬戸惑う。派手な音をたてて椅子から立ち上がったのは、還暦をとうに越えた壮年の男だった。表情に深く刻まれた皺は生きてきた年数を思わせるが、今は怒りのためであろう、さらに深みを増している。爪が食い込んで白く変色するほど拳を握りしめ、鼻息荒く先ほどの男を睨みつけている。 「世の理を何も知らん洟垂れが、いと高き帝王様にむかってなんてぇことぬかしゃぁがるっ!」 「ぁんだよぉーおっさんもしかして頭かってぇ帝国主義者かよー?やだやだ、イマドキ流行んないぜぇ、王サマ〜僕のお尻を踏んで舐めて蹴飛ばしてくださいぃ〜〜ってかぁ?うひゃひゃひゃぁ!」  若者は自分の言葉に爆笑しながら大げさに天井を仰ぎ、周りの者をも煽る。彼の仲間であろう集団から口笛や拍手がとんだ。 「小僧、それ以上無礼な口を聞いてみろ、顔面の骨をばきばきに砕いて判別つかんようにしてやる」 「誰がやるってぇ〜?ジジィが〜俺を〜?うっひゃひゃ無理無理!」 「安心しろ、ちゃんとお前さんをぶん殴ってくれる奴がいるさ」  ガイは頭の上の方で若者と老人のやりとりを聞き流していた。これから面倒な事について調べるのだ。好んでさらに面倒事にかかわる気は毛頭ない。ガイは空になったグラスを満たすべくジンのボトルを掴んだ。と、突然視界が揺れる。ボトルの口から液体が飛ぶ。我に返った時には、ガイは老人の真横に立たされていた。老人が高々と叫ぶ。 「この若ぇのがお前の腐った性根をぼこぼこにしてくれるわ!」  思わずボトルを取り落としそうになった。驚愕と困惑で目を見開いて老人を見る。思わず口をついて出たのは単純かつ明快な言葉だった。 「なんで」 「ワシの直感だ」  期待に満ちた瞳で見つめ返され、ガイはシャツの袖口を鷲掴んでいた老人の手を振り払った。 「いきなりふざっけんなジジィ!俺は帝国派でも共和派でもなんでもねぇ!」 「いいや、お前さんは帝国の人間だ。生粋のな」  今や店中の人間がこちらに注意を向けていた。テーブルを離れてわらわらと近づいてくる。楽隊の演奏もいつの間にか止んでいた。あっという間に周りに人だかりができるのを感じながら、ガイは半眼で老人を見た。 「何の話かわからねぇな。関係ない、まきこむな!大体根拠がねぇ」 「あるとも」  口調、表情、態度、ガイは全てで拒絶の意を示してみたが、老人は自信ありげに頷く。首元から自らの服の下に手を突っ込むと、チェーンに繋がれた銀色に輝く小さなプレートタグを引っ張り出した。それは、ガイの胸元に光るものと酷似していた。  顔の前でちらつかせながら口の端をあげる。 「国立軍人養成アカデミーの修了証だ。お前さんのもそうだろう」 「……そういうことかよ」  シルバーリングと共にチェーンに通された自分のそれと見比べて、ガイは観念したように息をついた。自らの見事なプラチナの長髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。  まだ半分以上残ったジンのボトルを老人の胸に押しつけた。 「ジジィ、ちゃんと持ってろよ」  言われる前に老人はボトルの中身を口に運んでいる。喉を鳴らしながら、茶目っ気たっぷりに右手の親指と人差し指でオーケーサインをつくってきた。
 オーケーじゃねぇよジジィ。つか、飲むな。
 出掛かった文句は胸に押し込めて。ガイは周りの人だかりをぐるりと見回した。先ほどの若者は酔いが回っているのか足元がふらついている。 「さっきのクソみてぇなジョークで笑った奴ぁ全員出てこい!まとめてブッとばしてやらぁ!」  ガイの遠吠えに、取り巻いていた人々が囁き出す。さざ波のように店中に広がり、1人、また1人と前に進み出てくる者達がいた。  拳を握り、ゆっくりと腰を落とす。剣などいらない。この身1つで充分だ。 「さ、かるーく揉んでやるか」  ニヤリと獣のように笑って。  共和派の人間であろう者達は、拳を突き上げ雄叫びを上げ、煽り合うように志気を高める。
   ガイが地を蹴る。それを合図に、店は喧騒に包まれた。



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