少年は、お日様の匂いにくるまれて目が覚めた。真白い柔らかな布に顔をうずめたまま、唸る。まだ寝ていたい。  呆れたような笑いを含んだ母の声が、寝ぼすけさん、と茶化してきた。もう父と妹は外へ出てしまったらしい。なんだよ、おいてくなんて。自分の寝坊は棚にあげて憮然とした顔で体を起こす。のろのろと床に降り立つと、思いきり背中を叩かれた。両手を万歳するようにあげられ、衣服をはぎとられる。代わりに動きやすい麻のズボンとシャツを手渡された。未だにまどろむような気分のまま、袖を通す。髪をわしゃわしゃと掻きまわして体裁だけ整え、食卓に置かれたパンを一つ掴んだ。くわえたまま、奥にむかっていってきますと叫ぶ。軽やかな母の声が追いかけてきた。  軋む扉を開けて外にでると、目がくらむほど眩しい陽光が迎えてくれた。砂の匂い。水の香り。いつもと同じ朝を感じて、少年は大きく伸びをした。パンを咀嚼しながら村の広場をめざす。お向いさんの老人がにこやかに声をかけてきた。手を振って挨拶をかえす。さらに歩を進めると、後ろから思い切り頭をこづかれた。危うく喉が詰まる。笑いながら横を駆け抜けていくのは、近所の遊び仲間だ。走って追いかける。お返しとばかりに飛びついた。2人まとめて地面を転がる。じゃれる。笑う。ふざけて叩きあう。友人の手を逃れて、軽やかに駆けた。  村の広場の中心には、共同の井戸がある。釣瓶を下ろし、水を汲んだ。勢いをつけてひっぱりあげる。手元にきた水をすくって、顔に押し当てた。冷たい。一気に脳が覚醒する。一日のはじまりだ。  ふいに、名前を呼ばれる。深くて、あたたかい声。振り返ると、父が大きな革袋をさげて立っていた。おはよう、と言いながら父の腰にとびつく。暖かい手が頭を撫でてくれた。この寝ぼすけめ。父に頬をつねられると、少年は楽しそうに悲鳴をあげた。  もう1度呼ばれる。高くて細い、かわいらしい声で。まだ舌たらずな調子で、元気よく呼ばれる。  おにいちゃん、おはよう。  小さな体を目一杯広げて、この世で最愛の妹が少年の腕の中に飛び込んできた。



 冷たい布の感触を頬に感じて、ユアンはゆるゆると瞼を上げた。  懐かしい、夢を見た。乾いた風が砂を運ぶ、故郷の香りがする夢だった。  シーツに顔をうずめたまま、大きく息を吸ってみる。かぎなれた太陽の匂いはしなかった。  まだ起きたくない。泣きだしたくなるような優しい幻につつまれて、もう少しだけまどろんでいたかった。  もう一眠りするか、とユアンが意識を手放そうとした時、突然ドアを殴打する音が響く。不躾なノック音にまどろみは裂かれそうになり、ユアンは嫌々と顔をおしつけるようにして誰かの訪問を拒む。 「ガイさーん、だれかきたよー…」  くぐもった声で兄貴分を呼ぶが、返事はない。  そうしている間にも、ドアの向こうの相手は追い立てるように木の板を連打する。  ユアンはしぶしぶと起き上がった。ぐるりと部屋を見回すが、ガイの姿は見当たらない。 「あれぇ…?」  寝ぼけ眼で首を傾げる。夜は一緒に外へ行くと言っていたのに、どこへ消えたのだろうか。  とっくの昔に置いていかれたことに気づかない少年は、まじめに頭を悩ませた。トイレかな?などと見当違いのことを考える。  しびれをきらしたように、ドン!と扉が叩かれた。 「はいはいーっと」  軽く返事をして、ユアンはドアノブに手をかけた。



「………なんで?」  深夜のノック音を不審に思いながらも訪問者を迎え入れてみれば。ミリアリアはドアを開けたままの体勢で呆然と立ち尽くしていた。彼がここにいるはずはない。遠い王都で兄の警護をしているはずの人間が。なぜ。  目の前の人物はミリアリアの心中を知ってか知らずか、陽気に片手をあげて挨拶をしてきた。 「よぉミリィ、しばらくぶりじゃな」 「なんでいるの!?」 「野暮用じゃ」 「うそでしょ…?」  腰に剣をさげ、見なれた外套を身にまとった30過ぎの男。短く刈り上げだ髪に灰褐色の瞳。どちらかと言えば地味な雰囲気の男だった。ミリアリアの横をするりと抜けて部屋に入ろうとする。慌てて男の袖を掴んだ。 「ちょっと待った!」 「なんじゃ。長旅と奇襲で疲れてなぁ。新しく部屋とるんももったいないじゃろう。泊めてくれ」 「レイ、1人?」 「朝から1人になった」 「誰ときたの?」 「ナナキじゃ。はぐれたがな」 「じゃぁ、ガイとユアンは帝都?」 「いや、あいつらもこの街のどこかにいるはずじゃ。ワシらは2人の尻ぬぐいに来ただけだからな」 「ちょっと!じゃぁ今兄様の傍に誰もいないの!?」 「まぁ、そういうことになる」 「し、信じらんない!親衛隊が1人も国王の傍にいないって何!そんなのアリ!?何かあったらどーすんのよ!」  悲鳴のようなミリアリアの声にも男は表情を崩さない。むしろ胡乱気に彼女を見下ろした。 「だったらこっちが聞きたいもんじゃな。お前とアロドは今日にも都に着いとるはずじゃろうが。宿帳に名前を見つけた時はほんのちょびっとだけびっくりしたぞ」 「…ほんの、ちょびっと?」 「アロドは前からお前を休暇に連れていきたい、働かせすぎだと愚痴を垂れていたからな。そろそろ潮時じゃろうて。だから、あぁこいつやったな、くらいにしか思わんかった」  ミリアリアは天井を仰ぐように額に手をあてた。計画的犯行だったのか。  任務中の寄り道など、通常なら到底許されることではない。正規の軍隊でなら、厳重処罰、もしくは除名処分だ。  しかし、レイは大きな手でミリアリアの栗色の髪をかき回した。まるで妹を見る兄のような表情で微笑んでいる。別にお咎めはないから気にするな、という意味だろう。頭から手を外すと、そのままさっさと部屋の中に入ってしまった。  入口に取り残されたミリアリアは少々不満げな顔で乱れた髪を整える。  勝手な寄り道がバレてしまったからには、きっと帰都後にアロドは数日謹慎処分をくらうだろう。捨て置いてしまいたいほど邪魔な自分の身分が疎ましかった。これさえなければ、と何度思ったことか。これのおかげで自分はいつまでも甘やかされてしまうのだ。中の男に文句を言っても栓のないことだが。  第64代国王の妹、王女ミリアリア・ランドグリーズ。それがこの華奢な少女の正体だった。  くすんだ橙のロングスカートに白いシャツ。くるくると先が遊ぶ栗色の髪は後ろでひとまとめに結い上げている。飾り気のあるものと言えば、昼間アロドに買ってもらった革の腕輪とパールの髪飾り、そしてシャツの下に隠したシルバープレートのみだ。どこからどう見てもそこらへんの町娘にしか見えないが、実際ならばこのような俗世間におりてくることなど皆無のやんごとなき身分の御方なのだ。  そしてそんな高貴な女性の部屋を深夜に訪ね押し入った不躾な中年男は、既にテーブルの上を占拠していた。小さな丸テーブルにグラスと酒瓶を置き、晩酌の準備万端である。どこに隠し持っていたのか、氷の入った小さなバケツまで鎮座していた。  呆れた顔でドア付近に立っているミリアリアを、にこやかに手招きした。とても一国の王女に対する態度とは思えない。  ミリアリアは瓶を一瞥して、肩をすくめた。 「あたしお酒飲めないよ」 「そがぁなことわかっとる。ほれ」  投げてよこしたのは、ジュースの瓶。それを危なげなくキャッチして、レイの向かいに座った。  互いのグラスに液体を注ぎ合う。満たされたグラスを掲げて軽くぶつけた。 「レイは何の用事で来たの?」 「言うたじゃろ。隊長と坊の尻拭いじゃ」 「なにそれ」 「燃料切れ飛行艇の回収」 「はぁ?バカじゃないのあいつら」 「まぁそれだけで終わりそうはないがな」  首を傾げて言葉の意味を促したが、男はグラスで口を隠したまま軽く眉を上げただけだった。どうやら教えてくれる気はないらしい。  また半人前扱いされているようで、ミリアリアは憮然とした表情を隠そうともせずにぶすくれた。 「レイはいっつもあたしに隠し事するよね」 「そうか?」 「まだ子供だと思って甘やかして」 「子供じゃろ」  むくれた少女の顔を前に悪びれもせずしゃあしゃあと言い放って、グラスに残った酒を一気に飲み干した。 「ナナキには全部言うじゃない」 「そがぁなことはない」 「嘘ばっかり。ナナキは何でもユアンに流すから、結局あたしだけ知らないことになるんだよ」  少女は非難がましい目をレイにむける。酒瓶をひっつかみ、空になっていた相手のグラスに勢いよく注いだ。溢れ出そうになり、レイは慌てて縁に口をつけて啜った。ふん、と鼻を鳴らし、少女は憤然と腕を組んだ。 「あたし、明日の朝一の列車で帰るからね」 「いや、一応隊長の許可を取った方がええ。同じ街にいることだし」 「なんで。もとから勝手に帰るつもりだったんだから、いいじゃない。隊長の許可なんかいらないよ」 「あー今は事情が事情じゃからの…一応許可を」 「だからなんで?」 「む…」  たたみかけるように攻められ、思わず口ごもる。かわりに、仕返しとばかりにぼそりと呟いた。 「まだガイを嫌っとるんか」 「……」 「兄ちゃんをとられたからか?」  からかうだけのつもりだったのだが、王女は図星をつかれて本気でヘソを曲げたらしい。答える代りに、まるで酒を煽るかのようにジュースを一気に飲み干した。




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